私は忘れられずに


   55:夜明け

 塗りつぶしたような夜闇の中を動き回る。手探りで探し当てた梯子に足をかける。ギィッと意外に大きく音がして肝が冷えた。軋んだ音を立ててすばやく屋根へ上がる。少し近くなった夜空では星星が煌々と輝いていた。月明かりに辺りが照らされる。
夜闇の中そこだけ色の薄まった雲が流れる。雲の流れは速く天気も少し不穏になってきた。ひょっとしたら一雨くるのかもしれない。疼くように傷が痛んだ。
 自身の死覇装の袂を緩めシャツをたくし上げる。肩口から下腹部へと斜めに入った傷痕。腹部に円くついた衝撃波を食らった痕。自身の運命すら左右する、男たちに付けられた傷だ。更木と狩矢。一之瀬は服装を直すと夜空を見上げた。
「また、一人か」
いつだったか夜空の星星を眺めて狩矢の語ってくれた神話は心躍るものだった。
呟いた声は虚空に消え、ただ寂しいような感覚だけが残る。雲が月を隠す。辺りはまた、夜闇に覆われた。
 ぽつんと冷たい雫。パラパラと次第に絶え間なく降り注ぐそれを一之瀬は甘んじて受ける。降り注ぐ雨は死覇装にしみこみ皮膚を濡らす。次第に強くなる雨足。肩を打ち膝を打ち雨の雫と音が皮膚を通して染みてくる。空を見上げれば雨の合間から流れる雲が見えた。通り雨なのだろう。雲の流れは速く次第に雨足は激しさを増す。一定に達すれば雨足も弱くなると踏んで一之瀬はその場を動かなかった。黒髪は濡れて頬に張り付く。流れる雫は涙のように頬を濡らし。泣いてもいないのに喉の奥に何か詰まったような、胸からこみ上げてくるものは。重く圧し掛かるそれは一之瀬の気を滅入らせた。泣き出す前のように喉の奥は熱く重く詰まったような感覚。
 「一之瀬」
自身の名を呼ぶ声に我に返る。心地好い低音とガッシリした体躯は雨に濡れる夜闇の中でも見て取れた。声を出そうとして喉が詰まる。不意に雨が肌の上を滑る感覚が鮮明に灼きついた。それでも彼は気づいた。梯子を上るギィッという音が雨音の合間に聞こえた。屋根の上で雨に濡れている一之瀬に目を向けた。
 「何をしている」
「いや、別に」
眠れなくて寝床を抜け出したとは言いがたく、一之瀬は言葉を濁した。古賀はそれを咎めるでもなく手拭を放ってよこす。乾いたそれが見る見る雨に濡れていく。
「風邪を引く」
「大丈夫だ」
「早く下りて来い」
よく動かない手足を必死に動かして古賀の後へついて下りていく。雨足は一時ほどの酷さはなくなったがそれでも乾いた布を雨水で滴らせるほどには降っていた。温んだ雨水はまるで誰かに抱かれているかのような幻想を抱かせた。それを引き剥がして囲炉裏に火のついた部屋へと入り込む。暖かな部屋に入って初めて己が凍えていたことを知る。カタカタと歯の根の合わない音を立てる。古賀の手が乱暴に一之瀬の死覇装を剥いでいく。
「乾かす。脱いでくれ」
 一之瀬は黙ってされるがままだ。裸になった上体には醜く引きつったような傷痕が走っている。腰紐を緩めて袴も一緒に渡してしまう。濡れた服を脱ぐのはまるで生皮を剥いでいるのに似ているとふと思った。裸になった一之瀬に古賀は毛布を渡した。大きなそれは一之瀬が包まってもなお裾を床に広げるほど大きかった。古賀は黙って囲炉裏のそばへ一之瀬の衣服を並べていく。裾は重く錘のように床へ張り付いた。ヒタヒタとする音は雨音とあいまってなんだか不思議な幻想を一之瀬に抱かせた。パチリと火の爆ぜる音がする。
 「何故、外に」
「…眠れなくて」
狭いなりの奥座敷には二人分の寝床が用意されていたがそのどちらも空だった。中途で抜け出したように乱れた寝床。
「眠ってくれて構わない。私なら、大丈夫だから」
「黙って雨に濡れている人間を大丈夫だとは思えない」
古賀のそんな面倒見のいいところは二人きりになって際立った。バウント達が集まっていたときはいつも後ろに控えて何も言わない印象しか、なかったのに。
 濡れた前髪から雫が滴って床に染みを作る。すっかり濡れ羽色になった髪に古賀が身を乗り出してそっと触れた。ビクリと体をすくめる。古賀はそれを咎めもせずに黙って髪に触れていた。
「濡れているな」
「…雨足が酷かったから、な」
「判っているなら何故」
「たまには雨に濡れてみたかったんだ」
 刹那、一之瀬の顔がまるで泣き出す前のように歪んだ気がして古賀は目を瞬いた。けれどそれは幻想であったかのように一之瀬は平然としている。その口元に笑みすら浮かべて。
「濡れているときは意外と、判らないものだな」
こんなに凍えていることも。今になって寒気が襲ってきた。一之瀬の目が潤んだように煌めいた。榛色をした瞳。
 「何故、濡れてみたいと」
「狩矢様が。前に雨に濡れるのも面白いと、おっしゃっていた」
狩矢のことを語る一之瀬の目が泣いているように潤んでいた。ずっと目を背け続けてきた己の裏切りと狩矢の裏切りと。一部始終を一之瀬本人から聞いた古賀は語る言葉を持ち合わせずにただ黙って聞いていた。ただそれだけが出来ることだと。
 「明けない夜のようだとも、おっしゃっていた」

長い長い時の中で倦んだ老人のように、狩矢は。
バウントの一生はまるで明けない夜のように長いと。
まるで眠れない夜のように長いと。

強さを求め続けてきた男はまるで一之瀬には刹那の閃光のように眩しく。
魅了、された。残る残像と余韻が一之瀬を。
 「…あの人らしいな」
一之瀬の唇が弓なりに反った。妖艶に、艶然と。一之瀬は微笑んだ。
「だから、雨に濡れてみただけだ」
「風邪を引いてしまうぞ」
「大丈夫だと言っただろう」
心配そうな古賀に一之瀬は悪戯っ子のように笑った。その顔には先刻のような妖艶さは微塵もなく。ただ無垢な子供のように一之瀬は体を震わせて笑った。
 「馬鹿は風邪を引かないらしいから」
「自分で言うな」
古賀の表情がやっと緩む。それを見て一之瀬はようやく安堵する。
あぁやっぱり。この方がいい。固い表情より柔軟に動く方がいい。
 薄く笑みを浮かべる一之瀬に古賀もまた安堵していた。
純粋なこの青年は。ひどく強くそれゆえに脆い。決して弱くはない力量の持ち主だ。だがそれゆえに、ひどく脆く儚い。忠実であるがゆえに裏切りには手ひどいダメージを負うだろう事が窺い知れた。
 一之瀬の目が不意に遠くを眺めるように眇められた。同時に射し始めた日の光に気付く。
己の背を煌々と照らし出す朝陽。重く濡れる夜は終わりを告げ、渇いた一日が始まろうとしていた。
「あぁ」
一之瀬はうっとりとして言った。眇められた眦から、一筋滑り落ちる。

「夜が、明ける――…」

恍惚として。夢見ているかのように儚い声で一之瀬はそう言った。
ぱたりと力の抜けた手が落ちる。合わせ持っていた毛布の合わせ目が緩み、白い胸があらわになる。女のように艶かしいそこには醜い傷が走っている。
 「古賀」
一之瀬の目が潤んでいた。眦から滑り頬を濡らす。
「夜が、明けていく」
「あぁ」
古賀は耐え切れずに目を逸らした。一之瀬はそれに気づかないような顔でうっとりと窓の外を眺めていた。それはまるで歳を感じさせない、どこか女のような。艶かしく。
匂い立つような色香を感じた。
 「狩矢様」
一之瀬の唇が言葉を紡ぐ。古賀は黙ってそれを聞いている。まるでそれが己の役目であるかのように。一之瀬は知らずにただ恍惚として呟いていた。
「夜が、明けます」
吐息が漏れる。肌に触れる毛布に一之瀬はくすぐったそうに笑った。

一生はまるで明けない夜だといっていた貴方を
私は忘れ、られずに

「あぁ」
眦から新たに、雫が滑り落ちた。


《了》

む、難しかった…    04/15/2007UP

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