貴方といる、幸せ


   10:名前を呼んで

 広い背中だった。着痩せする性質らしく、その体はいつまでも優雅と言う言葉の中にあった。仕草や、その長い手足の動きの一つ一つに魅了された。
その体が背中が遠ざかっていく。手を伸ばそうとする体の動きがひどくのろい。
手足が重い。動かない。見る見る遠ざかっていくその背中。叫び出そうとして喉がふさがれる。声までもが自由にならなかった。遠のいていく男。私は――

「狩矢様!」

叫び声が上がったと思った瞬間、それが目覚めだと知る。
「…夢」
自分はいまだ、あの男に囚われている。
 上体を起こすと腹部に痛みが走った。思わず前かがみになったところで扉の開く音がした。目をやると屈強な体躯の男が扉の位置に立っていた。
「古賀…」
「起きたか。もう、朝だぞ」
一仕事終えてきたのがその肌にはうっすら汗さえかいていた。
「…起こしてくれれば」
「怪我人に仕事をさせるわけにはいかない」
律儀にそう答えて抱えていた薪を下ろした。そんな律儀さに、惹かれていた。
 「脱げ、包帯をかえよう」
気付けば自分は汗だくで扉から吹き込んだ風がヒヤリと肌を冷やした。
「…判った」
袖のない死覇装と白いフードつきのシャツを脱ぐ。鍛えられたしなやかな肉体が現れる。
その腹部には仰々しく包帯が巻かれていた。

――尊敬し、愛した人から受けた傷

「ランタオさんは…」
「外で仕事をしている」
言いながら古賀の手が包帯を巻き取っていく。一之瀬はただ、されるがままになっていた。
あて布を取り替え、新しい包帯を巻いていく。古賀のその手付きは最初の頃こそたどたどしかったが、今となっては手馴れたものになってしまった。
 「すまない」
「謝るな」
一人の青年が受けた傷は腹だけではないことを古賀は感じ取ってそう言う。

「真樹」

ピクン、と一之瀬の肩が震える。
 かつて一之瀬をその下の名で呼ぶ男がいた。力を求め滅んでいった男だった。
その男の影はいまだ重く一之瀬に圧し掛かっているのは見れば判った。
だからこそ、古賀はわざと一之瀬を、その下の名で呼んだ。
「もう解放されてもいい頃だ」
「はは…ッ」
一之瀬の手が顔を覆う。その指の隙間から雫がぽたぽたと滴った。
 「古賀…」
顔を覆う手を取り去る。端整な顔が泣き顔に歪んでいた。切れ長の目尻から涙が流れている。透明な雫が幾筋もの跡を残す。震える喉。泣き声を噛み締める唇は紅く、血が出たように見えた。
「忘れろと言うのか? この私に?」
「忘れろとは言わん。ただ、もう――」

乗り越えてもいい頃だ

「あはは――」
震える喉から自嘲がほとばしる。実直な青年が受けた裏切りの傷は深く。

「真樹」

その傷が癒えるならと。古賀は一之瀬の下の名を呼んだ。
「古賀…!」
しがみつく腕が爪を立てる。古賀はただその痛みに耐えた。この青年が受けた傷を思えば、こんな痛みなどなんでもないように思えた。
 「…んでくれ」
「一之瀬?」
「私のことを、下の名前で呼んでくれ」
自嘲する青年をその腕の中へ抱き寄せる。怪我でわずかに発熱した体は熱く。
「いくらでも呼んでやる…!」
君がそれで癒されるなら。立ち直れるなら。忘れられるなら。

「真樹」

古賀の低音が響く。一之瀬は古賀の腕の中でクスリと微笑んだ。
狩矢に呼ばれるときとは天と地ほどの差があった。
狩矢に呼ばれたときはその強制力に惹かれたものだった。ぐいぐいと引っ張っていくその強さに、惹かれた。
だが、古賀の声は温かで穏やかで。
己の罪を許してくれているような錯覚すら覚えるほど優しく。
 「真樹」
「…ありがとう」
濡れた頬と目尻を拭い、一之瀬が言った。それでもその抱きしめる腕の中に体を預ける。

なんて心地好いのだろう
なんて温かいのだろう

そのぬくもりに目の奥がじんとなった。
 「古賀、君の下の名前はなんと言うんだ?」
顔を上げて問うと古賀は父親のようにフッと笑った。
「さぁ…忘れたな」
永い永い時の中で。救えなかった命があった。けれど今、こうして救えた命もあるのだ。
古賀はそれだけで良かった。
 クスッと一之瀬が笑い返す。その笑みだけで古賀は救われるような気がした。

「ずるい男だな、君は」

「真樹ほどじゃ、ない」
ぱちくりと目を瞬かせる。その直後に一之瀬ははじけるように笑い出した。
「確かにそうだな…!」
一之瀬が上体を伸ばす。その両頬に添えられた手。触れ合う唇。

「ありがとう」

涙で潤んだ一之瀬の目が煌めいていた。
古賀はそれに微笑で答えた。
二人はただ、抱き合っていた。

失ったものは多かった、けれどこうして得たものも確かにあるのだ。
ただ、それだけで良かった。


《了》

久しぶりのブリ小説…   01/28/2007UP

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