長い一夜で覚えることは


　　　65：徹底的な一夜漬け

　カーテンを閉めた部屋の中は煌々と明かりがついている。窓の外では星星の張り付いた夜空が息づいている。寒い季節ほど夜空は美しく煌めく。土浦は眠い目を子供がむずがるようにこすりながら立ち上がった。少し開いた隙間から忍び込む夜を部屋の明かりは潔いほどはっきりと拒絶している。窓硝子に隔たれた空間は明確に差別されていた。冷たい窓硝子はそれ自体が夜空であるかのように凛としていた。頬を寄せればヒヤリと熱が奪われていく。
　「何してるんだお前」
柚木にしては珍しく、手ずから盆を抱えて部屋に戻ってくる。盆の上には二人分の熱いコーヒーが乗せられていた。
「てっきりワゴンでも引っ張ってくるかと思いましたよ」
「お前が望むならそうしてやってもいいぜ」
ワゴンも乗せるだけの菓子もあると柚木が楽しげにうそぶいた。柚木が広げられた帳面の傍らにカップを置いた。温かそうな湯気が上っている。
「ブラックにしたぜ。眠気覚ましだからな」
「そりゃどうも」
土浦が元の場所へ腰を落ち着けると柚木もその向かいに腰を下ろした。しばらくペンを走らせたりページを繰るかすかな音だけが部屋に満ちた。土浦の目がチロリと柚木を見た。
　長い紫苑色の髪をかき上げる仕草は手馴れていてよく馴染んでいる。今は伏せられている瞳は宝石で言うならトパーズの煌めき。肌や指先は白く、それこそ箸より重いものは持ったことがないといっても通りそうだった。それでいてフルートを奏でる指先は土浦が思うよりずっと強靭だ。流れるような動きを苦もなくこなす。吐息を使う楽器を奏でる所為かその胸郭もしっかりとしている。桜色の唇がわずかに開いて動いた。その動きに目を奪われて土浦の手が止まる。柚木の目線が土浦の手元に移ろい、つられたように土浦を見た。
「どうした？」
「…あッ、いえ、なんでもないです…」
　みるみる真っ赤になってむやみに帳面を埋めていく土浦に柚木が勘のよさを働かせてにやりと笑った。
「見惚れたか？」
土浦が返事をする前に柚木のほうから土浦の方へとにじり寄ってくる。ペンを握る手を包み込むように白い手が被う。土浦は両手を封じられて何も出来ない。されるがままに近づいてくる唇を享受した。触れてくる唇はほのかに温んで境界線を曖昧にした。
　強い指先が土浦の下顎を捕らえて離さない。背けることも許されず土浦はただ唇を受けるしかすべがなかった。
「…――ッは…」
熱く濡れた舌先が歯列をなぞって離れていく。絡んだ舌は痺れたように動けなくなっていた。柚木が性質のよくない笑みを浮かべる。日ごろ猫をかぶっている鬱積を晴らすかのように柚木は二人きりになると剥き出しの欲望をぶつけてくる。
　柚木の指先が優しく土浦の若草色の髪を梳いた。短いそれはすぐに柚木の指先から逃れてぱらぱらと散る。山桃色の瞳が真っ直ぐに柚木を見た。明るく快活で、裏など存在しないかのように振る舞いながらこうして婀娜っぽく誘う土浦を柚木は知っている。人間は誰しも二面性を持っていると知っていながら目の当たりにすれば多少動揺する。土浦は似つかわしくない色気を振りまいて艶やかに笑んだ。
「優しいですね」
「お前は覚えがよさそうだからな。一晩でどこまで教えてやろうか」
柚木が挑戦的に笑えば土浦も挑むように笑った。
　指先が濡れた唇をなぞるのを土浦は黙って受けている。土浦は存外受身な面がある。抱きしめれば体を震わせる。それでいて土浦から抱擁を求めることはなかった。
「お前を仕込むのは難しそうだな」
「覚えは早いと思いますけど」
土浦の言葉に柚木は声を立てて笑った。確かに土浦は教えたことを綿が水を吸うように素早く吸収していった。少しきっかけを与えてやればすべてを承知したかのように式を解いていく。飲み込みは早いのだろう。馬鹿でもない。与えられたものを鵜呑みにせず自身の糧に出来る人間だ。
　柚木の指先がつんと土浦の顎を上向かせた。
「俺は優しくないかもしれないぜ」
「優しさなんて期待してませんから」
土浦は柚木の指をゆっくりと外しながらそううそぶいた。その顔が挑むように口の端をつり上げた。
「本気にしますよ。相手してくれるんでしょう？」
柚木は体を折って爆笑した。笑い涙を拭うと土浦の唇を指先でなぞる。柚木の紅い唇が近づいたと思う前に唇が重なった。
「いい度胸だぜ」
柚木の腕が土浦の体を押した。土浦はそれに逆らわず体を傾がせていく。圧し掛かる柚木のつり上がる口の端だけが妙に鮮明に見えた。
「後悔するなよ」
「しません」
土浦の即答に柚木が笑んだ。
「俺の知る限りを教え込んでやる」
柚木の指先が土浦の襟を大きく開いた。


《了》