冷たいあなたの境界を
私の熱が超えてゆく
46:熱を奪う腕
入り組んだ階段を降りて通りへ出る。目の前の明かりは鮮烈で不確かだ。不意に目を灼く焔色が点ったかと思うと目の前の地面が見えないほどの闇に覆われたりする。整備の行き届かない路地裏は唐突に道が消えたり妙な場所から道が伸びていたりする。騒がしいだけではない呼び声はいかがわしさすら含んでいる。地面を照らす明かりやしどけなく服を着崩した婦人やその腰へ手を回す男性などがそこかしこに見え隠れする。
一歩足を踏み入れることすら勇気がいる場所を住処にしている輩もいる。ティボルトなどはそのいい例だ。判っているのは名前と路地裏によく出没するらしいという二つの情報だけ。住処は知らなかった。フランシスコが彼に会ったという店を目指したが一向にたどり着かない。方角も最早不明だ。立ち止まれば暗がりへ引っ張り込まれることを懸念して歩を進めるだけだ。伸びてくる腕は女のものだけではない。女らしい箇所などどこにもない体を連れ込んで何が楽しいのかキュリオはまったく判らない。それでも伸びる腕は無数にありそれを避けるようにして裏通りを歩いた。
唐突に通路が途切れて運河へ出る。夜闇を吸って河は墨のような艶を帯びている。手を浸してみれば昼間の熱を吸ったのか少し温い。指先からぽたぽたと雫が滴った。無色のそれが集まれば墨のような色をなす。この時間帯では行き交う船もなく水面は密やかにその表面を揺らした。
「俺を探したか?」
響いた声に目を向ければ闇に融けゆく黒さのマントをはおった青年が立っていた。
うなじまで覆うマントは黒い。耳の後ろやうなじを隠す程度に短い髪は濡れ羽色で艶を放つ。深い蒼色の瞳は夜闇のフィルターがかかって濃灰色に見えた。鋭く射抜く眼光は月明かりを浴びてその瞳を煌めかせる。顔立ちは整っている。フランシスコが親しみある優男ならティボルトはもっと近寄りがたい美しさだ。その様は美麗で孤高。他の追随を許さないそれはそれ故に独りだ。
屈み込んでいた体を起こす。身長はキュリオの方がある。見上げてくる蒼い瞳がティボルトの持つ明かりの焔色を反射して煌めいた。
「…お前に、会いたかった」
キュリオの言葉にティボルトが体を折って笑った。表情を崩さないティボルトにそれは珍しいことだがそれをキュリオが知る由もない。笑われてキュリオはムッとした顔をする。
「俺も好かれたものだな」
ティボルトはそう嘯くとキュリオの頬に手を添えた。ヒヤリとする指先。キュリオはその手首を掴んで細い体を引き寄せた。唇が重なる。驚いたように見開かれる蒼い瞳をキュリオは観察するかのように冷静に眺めていた。
触れるだけで離れていく唇。間から紅い舌が篝火のようにちろちろと覗いた。ティボルトの唇は紅く熟れた果実のようだった。瑞々しいそれ。ティボルトは唇を歪めて笑った。
「あの長髪はいいのか」
「フランシスコは関係ない」
ティボルトの指先がキュリオの体を衣服の上からなぞる。鳶色の髪を梳き、芥子色の瞳を見つめてくる。脚の間へ手を滑らせるとキュリオが驚いたように体を固くした。
そのまま運河に架かる橋の袂へティボルトはキュリオを追い詰めた。
「さっきの積極性はどこへやった」
ティボルトの指先が上着の留め具を外していく。指先は器用にひらめきながら艶やかに動き回った。桜色の爪が見える。
「…用事なんてない。俺がお前に会いたかっただけだ」
ティボルトは満足げに笑んだ。紅い唇が弓なりに反って傲慢な笑みを浮かべる。
あらわにした胸に指先を這わせる。
「上等だ。だったら文句を言うなよ」
その間にもティボルトの手や指先は好き放題動いている。
「…判った」
キュリオは吐息と同時に何かを吐き出し力を抜いた。
ティボルトの顔がひどく嬉しげだ。鋭い眼差しもなりをひそめて優しげにキュリオを見てる。空を見上げれば星が瞬いていた。月明かりがさしてティボルトの顔の陰影を浮かび上がらせる。くっきりとしたそれらは鮮烈で目に灼きついた。肌は仄白い光を帯びてそれ自体が発光しているかのようだ。官能的な乳白色の皮膚に艶やかな黒髪はよく映えた。その対比がみるものを魅了する。瞳は深い蒼色だ。宝石のような潤んだようなその煌めきは危うさと美しさを兼ね備えていた。
キュリオの皮膚がヒクリと引きつる。這わされたティボルトの指先はひどく冷たく氷のようだ。色が白いだけにそれは顕著だ。
「俺の名を呼んでみろ、名乗っただろう」
「…ティボ、ルト」
喘ぎながら紡がれた声にそれでもティボルトは満足げだ。
「上出来だ」
ティボルトは言葉を紡ぐと唇を重ねた。
路地の暗がりで抱き合う二人を目に留めるものはいなかった。それはそうありふれた光景。いかがわしさの蔓延する界隈では同性同士の抱擁も珍しくない。いちいちそれを気に留めることもない。
ティボルトの腕がキュリオの体を抱いた。ひどく冷たいそれはキュリオの体から体温ですら奪っていくような錯覚すら覚えた。境界線が曖昧になる。融けあった温度は互いの体を行き来した。触れ合う唇の感触。体を這う冷たい指の感触だけが妙に鮮明にキュリオの思考に灼きついた。襟をはだけさせ内側へ滑り込んでくる指先。冷たい末端器官がキュリオの体の熱を上げていく。
身震いするキュリオの様子にティボルトは笑った。
「冷たいか」
キュリオは返事をしなかった。ティボルトはそれでも無遠慮に指先を這わせる。
「我慢しろよ、お前が欲しがったんだ」
ティボルトの手がキュリオの下肢をまとう衣服を一気に剥いだ。
《了》