いつか呼ばれるまで
その手を取ってください
40:黒い海
夜の静けさが深々と満ちている。品よく洗練された広い館だ。寝床を抜け出して濡れ縁に腰を下ろす。見上げる夜空では星星が瞬いている。夜の空気は程よく冷えて身が引き締まるような気がした。清冽なそれは皮膚の触れた場所から侵入してくる。袖のない上着を羽織るといつもの格好になる。裾をさばいて座りなおすと月光を浴びるかのように背をそらす。目蓋を閉じて伸びをするとそのまま体を倒して横になる。ヒヤリと冷たいながらもどこか肌に馴染む床は高級な板が張られているのだろう。
ひたひたと張り付くような足音に目を向けると景時より年若な青年がいた。背中を覆うほどに伸びた髪と瞳は日の光の元で見れば鮮やかな橙になる。毛先が日の光に透けて見えるほどだ。理知的な光を宿す瞳。生い立ちや育った経歴の複雑さを表に出さない。彼はその兄を慕いながらも二人の間の溝を埋められずにいる。そんな不遇すら彼の美しさを際立てるしかない。
「あれ、どうしたの」
寝転がったままで目線だけを向ける景時に九郎は困ったように笑った。日の光で透かせば橙の髪と瞳も夜闇の黒さをすって濃紺に変化している。
九郎が景時の隣に腰を下ろす。長い髪と着物の裾をさばく。その仕草すら美しい。
「眠れなくなったんだ」
「ヘェ、オレも」
景時が肘をついて体を起こす。景時の露な腹部を月光が舐めるように照らす。引き締まったそれは見苦しくもない。移ろう光に滑らかな皮膚が仄白い光を帯びる。
景時は視線を夜空へ投げた。九郎もそれにならうように夜空を見上げた。景時はいつの間にか体を起こして月を睨むように見ていた。
「九郎、夜の海って見たことある?」
「海か…夜の。それくらい、ある」
ムッとした九郎がじろりと景時を睨むとそれに気付いた景時が笑んだ。
「墨みたいだと思わない」
「海がか?」
景時は頷くと遠くを見るような目付きをした。目を奪われるその様に九郎はこっそりつばを飲んだ。普段は飄然としてる景時だが不意にこういう顔を見せる。それはどこまでも妖艶な。抱きしめたくなる女の肌とは違う。この腕に抱いた瞬間から崩れていってしまうような、崩壊寸前の美しさにも似た。
「惹きこまれそうになるんだよ」
口の端を吊り上げて目を眇めて景時が笑った。その顔が近づいたと思った瞬間、唇が重なった。不意のそれに九郎は目を瞬いた。触れるだけで唇は離れていく。景時の指先が九郎の長い髪をもてあそんだ。
呆然としている九郎の様子に景時が唇を尖らせた。
「嫌だった? だったらもうしないから」
「べ、別に嫌じゃないッ!」
ブンブンと頭を降る九郎の様子に景時が肩を揺らして笑った。天河石の煌めきを放つ瞳が面白そうに九郎を見つめ返した。同じ色の髪が風にそよいだ。
頬を紅く染めた九郎の指先が景時の唇をなぞる。九郎の肌は白い。月明かりを浴びて発光しているようだった。火照っているのか触れるそばから境界が曖昧になるように熱が融けだしていく。
「景時」
九郎の声がおずおずと景時の名を紡ぐ。指先が唇から離れて耳へ触れる。耳に嵌められている銀筒を撫でてから耳をくすぐる。
「くすぐったいよ」
身をよじって体をずらすの追って口付ける。触れた唇は柔らかく心地好かった。
間近に見える琥珀の輝きを見せる九郎の瞳。真っ直ぐなそれが景時の体を射抜いた。
「九郎」
「なんだ」
景時が口元だけで笑った。こつんと額をあわせる。景時が目を閉じるのを九郎は黙って見ている。唇が言葉を紡ぐのを黙って聞いている。
「夜の海ってさ、すごく惹かれるんだよ。なんだか飲み込まれそうな引き込まれそうな、感じがしてさ」
景時の目蓋が震えて開いた。それは嬰児が目を初めて開くさまを思い出させるような弱弱しくか細いような。
「時々」
景時がゆっくりと笑みを浮かべた。潤んだような目の煌めきに九郎は目を奪われる。
「そこに体を投げ出してみたくなるんだよ。何もかも振り捨ててそこに身を任せたらどうなるんだろうなんて。あの闇に身を投じてみたく、なるんだよ」
九郎の腕が意識する間もなく景時を掻き抱いた。力強く抱きしめてくる。
「く、九郎?」
「させない! お前にそんなこと、この俺がさせたりしない!」
九郎の両手が景時の頬をはさみ、目線を真っ直ぐ向けてくる。ばちんと音がするほどの激しいそれに景時は目をぱちくりさせた。頬が痛む。
「九郎、ほっぺた痛いんだけど…」
「いいか」
九郎は怒ったように眉を吊り上げている。景時は困ったように笑んだ。昔から色々とかわし続けてきた所為かこういうときは黙っていた方がいいと経験から知っている。黙って笑う景時に苛立ったように九郎が睨んだ。
「いいか、俺はお前を夜の海になんかやらない」
「お前を絶対、手放したりなんかしない、させない!」
噛み付くような口付け。驚きに見開かれた瞳を間近に睨みながら唇を吸う。
「…ありがと、九郎」
九郎の腕が景時の体を抱きしめるままにさせる。景時の指先が九郎の髪を梳くように撫でた。髪の艶が濡れたような輝きを帯びた。
《了》