それは瑠璃のように夜のように
私を魅了する
17:濃紺
用事を済ませて帰る目の前を横切った人影に目を奪われる。街は明かりが点り橙色や白色が辺りに氾濫している。人影は急ぐでもなくゆっくりと路地裏へ入り込んでいく。いかがわしい界隈を勝手知ったる庭のように歩いていく。酒の匂いと罵声と嬌声とが入り混じってさざなみのようにこだましている。無遠慮に並べられたテーブルや椅子で人々はてんでに軽食を摂ったり酒を酌み交わしたりしている。
曲がり角で人ごみに紛れた人影を追う。入り込んだのは袋小路でそこには誰もいなかった。見失ったことを渋々認めながら踵を返そうとする体が凍った。背中に感じる硬質な感触。尖った先端が背骨のくぼみをなぞった。
「何をしている」
低い声がキュリオの耳朶を打つ。恐る恐る振り返ると小刀を構えたティボルトがいた。薄い夜闇の中でも、よく手入れされているらしく刃がギラリと光を放つ。
キュリオは早々に観念すると体をティボルトの方へ向けた。それでもティボルトは油断なくキュリオの喉元へ刃を向けてくる。刃が煌めいてキュリオの喉へ紅い線を引く。一瞬のそれに身動きすら取れない。手加減されたらしく出血もない。ただ紅い線が喉へ引かれただけだ。
「度胸はあるということか。もっとも」
クッとティボルトが喉を震わせて笑った。短刀を鞘へ収める。
「こんな時間にこんな所を一人でうろつくあたりただの馬鹿か」
ムッとするキュリオの様子を感じ取ったのかティボルトはさらに笑みを深めた。
「キャピュレットが何の用だ」
「…それは関係ない」
ティボルトが驚いたように目を瞬いた。そんな表情を見ると思いのほか歳若に見える。
「お家柄は関係ないと。ますます不可解だな、なんで俺をつけた」
キュリオが言葉に詰まる。それを窺い見ていたティボルトは切っ先のような鋭さを見せた。一度は収めた短刀に指先を這わせるのを見てキュリオは息をついた。
「…お前が気になっていただけだ。少し話が、したかった」
ティボルトは疾風のように現れ、また去って行った。剣の腕前やかくまっている少女の本名のこと、訊きたいことや問い詰めたいことは山ほどあった。それでも手がかり一つなくてはただぼんやりと機会が訪れるのを待つしかない。
「見つけたときは驚いた」
「俺もだ」
ティボルトの言葉を理解する前に唇が重なった。
キュリオの隻眼が驚きに見開かれていく。芥子色のそれは濃灰色や鳶色へ色を変えて潤んだように煌めいた。目の前に見えるティボルトの瞳は深い蒼だ。夜闇のフィルターがかかって濃紺に見え、今にも闇の中へ溶け出してきそうな気がした。マントの奥の腕はキュリオより華奢だったが何故だかそれを振り払えずにいた。彼の持つ二刀の柄が闇の中で浮き上がって見えた。口付けた体が傾いでキュリオを壁際へ追い詰める。背中に触れる冷たい石の感触にギクリと震えるとティボルトは哂った。
舌先がキュリオの下唇をぺろりと舐めて離れていく。呆然としているキュリオにティボルトは哂った。その笑みはどこか、上からものを見るように。哂った。
「悪くない味だ」
「お前…ッ」
ティボルトの瞳が濃紺に煌めいた。その様にキュリオは不覚にも魅入られた。夜闇の暗さを増した中でティボルトの瞳は瑠璃のように輝きを帯びていた。幻惑的なそれはひどく稀有なように思われる。
「なんだ」
黙ったキュリオをいぶかしく思ったティボルトの手がキュリオの下顎を捕らえた。
「俺の顔がそんなに珍しいのか」
「…いや、目が」
「目?」
ティボルトが片目を眇めた。キュリオがクスリと笑う。
「綺麗な色だと思っただけだ」
その笑顔にティボルトが頬を染めた。あまりに率直なそれは直接心に触れた。ざわざわとかき乱すそれを嫌いながらどこか愛しく思う。ティボルトの過去や生い立ちを知る者や平素、付き合いのある連中からは得られない感触だった。無骨で真っ直ぐで、それ故に。
ティボルトはキュリオの下顎を捕らえる手を振り捨てるように離した。背けた頬が紅くキュリオは目を瞬いた。
「忘れるなよ」
「…は?」
ボソリと呟かれた言葉を聞き返そうとしたキュリオの唇をティボルトは塞いだ。頬に添えられたティボルトの指先の感触が、妙に克明に残った。ティボルトがキュリオを解放した後もその感触が頬に残っていた。
ティボルトは足音高く踵を返す。ティボルトが振り向いた瞬間マントが風をはらんでフワリと浮いた。
「いつまでそこでぼさっと突っ立っている気だ」
キュリオの肩がビクリと跳ねる。名残をたどるように指先が唇に触れていた。
「襲われても助けないぞ」
ティボルトはフッと笑うと高慢にキュリオを見た。キュリオは顔を歪めて歩き出す。
「こんな男を誰が襲うんだ」
「物好きは案外多いぞ」
ティボルトは笑ってキュリオの手を引いた。
「どうせヒマだろう」
キュリオはため息をついたがその手を振り払うことはなかった。
《了》