さらけだす、それ


   48:幻よりも儚き命ゆえにあなたと言う現を欲する、夏の夜の蜻蛉のように愚かな私を

 暮れ時の忙しなさの落ち着いた夜半の空気が満ちる。天上に星が瞬き墨色の空に灰色の雲が流れた。嘆息してその場に座り込むと隠しを探る。煙草を咥えて火をつけようとして思いとどまる。舌打ちして吐き捨てた煙草を踏み潰して膝を抱える。昼間聞いたやり取りが甦る。聞いてしまったと言った方が近いかもしれない。そもそも藤堂は卜部には気づいていなかったし卜部もそんな場面に出くわすとは思ってもいなかった。声をかけようとした卜部より先に名前も知らない誰かが藤堂を呼びとめた。そのまま立ち去るのが無難で賢かった。だが卜部は藤堂のことを無視できるほどに厭うてはいなかったから、込み入った話であったら立ち去ろうという気軽い心構えでいたのだ。藤堂を呼びとめたものは短く時間と場所だけを告げた。その意味をそのものは理解していないらしく無味乾燥に藤堂に告げた。こんな些事で煩わされたくないと言いたげなほど不親切であったがそれ以上に藤堂の変化に卜部はたじろいだ。藤堂の表情は目に見えて強張った。わずかに目を見張ってから相手に了解の旨を伝える藤堂に表立った変化はなかったがそれだけに、内在するものの変化は顕著だ。
 声をかけそびれた卜部は意味もなく藤堂の後を追った。声だけかけておこうと思って後を追ったが藤堂は足早でまかれないようにするだけで難儀した。しばらく無意味な追走を続けてから卜部は気づいた。同じ場所だ。藤堂が明確な目的をもって足を運んでいるとは思えなかった。角にあたれば曲がるだけなのだ。分かれ道の選択は不規則でまさしく右往左往していた。焦れた卜部が藤堂に追いついて肩を掴んだ。振り向いた藤堂の灰蒼の無機的な煌めきはきっと忘れない。卜部は自分に言い聞かせる意味さえ含めて藤堂を見つけたことと軽い挨拶を述べた。いつ見つけたとか後を追ったとかいうことは話さなかった。藤堂はただ静かに手間をかけたなと詫びた。
 「なんだってンだ…」
うぅとうめいて脱力する。藤堂と寝た後でさえこんなに思い煩ったりしなかった。藤堂のなにかが卜部の警鐘を鳴らす。それがなんなのかは霧のごとく掴めない。茫洋と卜部が思い出す。藤堂は卜部を抱いて一言だけ呟いた。その言葉を卜部に聞かせるつもりはなかったようで卜部も問い返したりはしなかったからそのまま有耶無耶である。
「あの人」
間延びした空間を電子音がつんざいた。はいはいはいと意味もなく焦って返事をしながら卜部は通信機器に飛びついた。ゆるんだ瞬間の呼び出し音は心臓に悪い。通話を開始するが相手の応答がない。もしもしという常套句に対する反応すらない。切ろうかとしたそこから控えめな声が、した。
『………うら、べ…?』
卜部の眉が寄る。無言でいると藤堂の言葉が続いた。
『すまない、声が聞きたく…私、は』
声色は確かに藤堂なのだが内容が藤堂らしからぬもので卜部は戸惑った。藤堂は相手に目的や結果を伝えるときは明瞭だ。表現にこそ悩むが、こんな話しかけたことを後悔するような声は出さない。
『わたし、は……どうしたら、もう、…』
藤堂の声が震えた。卜部は息をついて戸締りを確認した。
「今どこにいるンすか。場所。迎えに、いきます」
短く告げられた場所を思い出しながら卜部は自宅を飛び出した。


 「腰ィ立たねェんですか?」
かけた言葉に藤堂は反応すらしない。嫌味さえ含まれるその言葉は常の藤堂であれば指摘と改善を求めるところだ。だが藤堂は黙って靴を脱いだ。卜部も乱暴に靴を脱ぐと藤堂より先に上がり込んで藤堂を引きずるようにして奥の間へ連れて行く。藤堂が告げた番地を卜部は消防に位置を確かめた。非常識な時間帯であることと急を要することで恥をしのんだ。消防には理由を聞かれたが知り合いが酔い潰れたとだけ言って出動を断った。むやみに出動を強いられる消防はそうですかと言って深追いはしなかった。低下したモラルと面倒を嫌う役所気質に少しだけ感謝した。藤堂がいたのは公衆電話のボックスだ。明かりに照らされたそこでぐったりしていた藤堂は確かに泥酔者にも見える。藤堂の自宅が近いことを考え併せて卜部は藤堂を帰宅させることにした。
「あんたァ聞いてるか?!」
藤堂は畳の上で這いずると短く呻いた。びくびくと痙攣する肩に予感がした。
「あんたァ」
「吐く」
予感のあった卜部は脱いでいた上着を広げて藤堂の口元をそこへ誘導した。藤堂が嘔吐して、その体を卜部は揺する。
「出せるだけ出しちまえ。なンだよ、食ってねェんですか?」
藤堂の吐瀉物は饐えた匂いこそさせたが明確に食物ではない。胃の内容物はあまりなかったと見えてむやみに透明な流動体が溢れた。
「すま、な…洗濯、代を」
「いいですよ、高ェもんじゃねェから」
落ち着いたらしい藤堂をおいて卜部は寝床を支度した。嘔吐く藤堂の背を撫でてやりながら藤堂の家を見た。掃除も行き届いていて過剰な装飾や無関心な手抜きもない。藤堂の呼吸が落ち着いた。卜部はその場を離れて浴室から洗面器を持ち出した。
 「布団敷いたからあっちで寝てくださいよ。吐くときゃここに」
枕辺へ洗面器を備えながら卜部が声をかけるが反応がない。卜部は藤堂の肩を掴んで強引に寝床へ連れて行った。藤堂の体は引き締まっているが思うより軽い。欠食することの少なくない藤堂の目方を何が減らしているのか卜部は知っているような気がした。引きずられるまま藤堂は寝床の上に座りこむ。頑として横にはならぬ。諦めた卜部が立ちあがろうとした裾が、がくんと引かれた。
「なンすか?」
「………一緒に、…いて、くれ」
卜部は黙った。藤堂は確かに気を使うのが上手いし相手の情緒も尊重するが己のそれには驚くほど無関心だ。その藤堂のこの言葉は明らかに同調を求めている。卜部のシャツの裾を掴む指先が震えている。その細さに卜部は振りほどくのを躊躇した。黙って腰を下ろした卜部に藤堂は短く礼を言った。
 そのまま沈黙が続く。藤堂の体は明らかに弱っているのに寝ろという卜部の言葉にさえ従わない。藤堂には確かに頑固な面があるがこれでは頑固と言うより意地でも張っているかのようだ。卜部は目線を投げる。薄暗い室内は屋外にいるかのような錯覚を起こす。湖面に投げた石のように、藤堂の中へ沈んだ言葉を卜部は思い出せる。
「時間と場所」
藤堂は俯いた。
「何されたかなんざァ訊かねぇでも想像つくけどな…」
藤堂の身なりは散々だった。開かれた襟や緩められた釦から覗く皮膚の変色。藤堂は通りすがりにぶちのめされる趣味はないし撃退できるだけの戦闘力も有している。甘んじて受けたとしか思えなかった。
「…抱かれたな。それも、手酷く」
卜部の目が敷布を見つめた。染み一つなく白い敷布は発光しているかのようだ。永遠にも思えるだけの時が流れた。感覚さえ鈍ってきたとき、藤堂は口を開いた。
「そうだ」
卜部の視線が藤堂に向けられた。それを感じるように藤堂は身震いする。俯いている所為で頸骨がピンと張り詰める。藤堂の喉が鳴った。震える指先が留め具を外す。あらわになった体は惨状としか言いようがない。殴打の痕も生々しく裂傷さえ走り血をにじませる。これほどの痛手を藤堂ほどの実力者が防げないはずもない。藤堂は暴力を享受していた。
「汚らわしい。私など」
藤堂の唇が震えた。妙に紅いのは鮮血だ。血に濡れて艶めいているのだ。その唇が弓なりに反る。
「私、など…生き、る、かち、さえ…」
言い捨てながら藤堂の指先が卜部の裾を離さない。ガタガタ震えて握りしめてくるそれはすがりつく幼子にも似た。突き放すことはたやすい。抱擁することもできる。だが卜部は何もしなかった。藤堂は切れ切れに断片をこぼし卜部は黙ってそれを聞いた。殴られたこと、ののしられたこと、相手は判らないこと、命令であったこと、犯された、事。そしてそれが今現在まで何度も繰り返し行われていた、事。卜部は黙って藤堂の独白を聞いた。いつしか卜部も腰を下ろして楽な体勢を取っていた。長期戦を考えているそれに気付いたように藤堂の吐息が笑んだ。
 「優しいな」
卜部は返事をしなかった。否定するのも肯定するのも違うような気がしたし、気怠げなこの空気に慣れた体は些細なことさえ億劫がる。卜部は藤堂の鳶色の髪を見つめた。秀でた額にはらはらと散るわずかな前髪が揺れた。うなじに線を引いたように闇へ融ける襟足とうなじへ視線を移ろわせる。浮き上がった頸骨は峰のようだ。中途半端に脱ぎ捨てられた衣服が藤堂の四肢に絡む。殴打の痕は胴部に集中していてそれが意識的なものであることとその狡猾さを教えてくる。瞬間的に発火するような刹那的なものではない。明らかにどこを殴るか思案した後の痕跡だった。
「や、さ…し……」
藤堂が唇を噛んだ。指先のしがみつく力は強い。藤堂の吐息が何度も何度も、震える。ぐぅと詰まったような音を断続的にさせて肩を揺らす。ぱたぱたと滴る雫が藤堂の状態を明確に示した。だから卜部はあえて藤堂の顔を見なかった。襟刳りから覗くうなじや袖から覗く骨の突起が判る手首ばかり見た。藤堂の体は弛みなどなく清冽に引き締まる。何度も震えを繰り返しては肩を揺らす。滴る雫の量も増えた。殺せない嗚咽に藤堂は喘ぎ、卜部も見ないふりはしづらくなった。
「なァ、あんたァ」
視線を逸らしていた卜部は対処が遅れた。吸いついてきた唇は果実のように熟れて柔らかさと同時に湿り気さえ帯びた。しっとり馴染むその感触に卜部が呆気にとられた。指先が卜部の想像を裏切る力強さと確固たる在り様で襟をはだけさせていく。もがく卜部の抵抗は受け流されて効果を失い、気力さえ殺いだ。藤堂の脚の間から伝う白濁に気付いた。藤堂は卜部の脚を開かせる。
「…巧雪…」
藤堂が卜部の名を呼んだ。卜部の四肢から力が抜ける。約束事を形にしない二人の関係での決まりごとは絶対だ。そこにはどんな例外も言い訳も赦されないし必要ない。藤堂はそういう意味での強引な関係において、己を蝕む相手のやり方を踏襲しているといえた。人は先例に倣うものだ。卜部の目が天井を見つめた。梁のあるそこは底なしのように暗く、電灯さえ届かない。電灯の明るさとの対比で殊更に暗くさえ見える。闇はすぐそこへ口を開けて待っている。
「巧雪」
藤堂の声が卜部の耳朶を打つ。
「すまない」
藤堂はひたすらに謝罪した。気遣いに応えられていないこと、こうした行為を受け入れることそして、反応してしまう、事。藤堂はただ汚らわしいのだ価値などないんだと言った。電話の時のように震える声は弱く、消えそうに。
「生きたい」
電話の時の延長だった。卜部は黙って続きを待った。死にたいと嘆かれたら殴りつけて立ち去るつもりだった。だが藤堂が言ったのはまったく逆の言葉だった。
「お前とつながっていたいんだ。お前の優しさが、嬉しくて、私は、それを離したくない。無様でも無残でもいいから私は、お前を」
藤堂は押し倒した卜部の喉を舐る。

「おまえをてばなしたく、ないんだ」

理由だった。お前は私が生きる理由でだからこそ。
なりふりも体裁も構わぬ。無様に泣いてすがって叫んでしがみついて。
それでもそれらはお前を失うことに比べたら、何でもない――

「こう、せつ」
ぼろぼろとこぼれてくる雫を卜部は払いのけなかった。頬や目に降ってくる雫は温んでいるように皮膚に馴染んだ。皮膚の油脂にはじかれながらどこまでも同化する。体温と同じ温度である血液の流れは判らないのだと言ったことを卜部は思い出した。そう言えば流血を感じるのはどろりとした流れであって血液の熱さではないなと気づく。
「こ、ぅせ、つ」
藤堂の声が何度も震えた。細い喉首も卜部を押さえつける指先さえも同じ調べで律動を刻む。
「――…鏡志朗」
卜部の返答は抱き締めるような甘さを帯びない。突き放すような冷淡さも示さなかった。

「俺にはあんたが、必要なんだよ」

藤堂は慟哭した。


《了》

あとからお題に当てはめたムリヤリぶり。(待て)
藤堂さんにとって甘えられるのって卜部さんかなーという。わけ判らんから。
誤字脱字ありませんように!            02/08/2010UP

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