だってあなたが好きだ、から
何もしないから何もないなんて誰が言ったの
乾期が近い、と葛は襟を弛めた。生まれ育った極東のように四季折々とは言わずとも、この大陸にも雨期と乾期がある。乾期の前の腐ったような雨期の名残の腐敗を乾期が砂塵に変え、それをまた新たな雨期が洗い流し新たなる腐敗を迎える。そんなことを繰り返す大陸の人々はそれに見合った図々しさで流動的な性質をしている。港湾部の路地裏へ行けばそれは顕著だ。治安が悪いところほどその土地の素顔が見えてくる。葛が居を構えるこの地域は夜は眠るものとなっているからまだまともで箱入りな方だろう。大陸でも場所によって蒸し暑かったりただ焼けつくように暑かったりと質が違う。このあたりは少し蒸す。だがこういう蒸し暑さは極東の故郷を思い出させて葛は嫌いになれなかった。
いつも通り帳面に項目を記しながら算盤をはじいて金額を書きつける。帳尻がきちんと合ったのを確認してから帳面を閉じた。
「か、ずらー」
声が途切れたのは飛び跳ねたからだろう。なんだか嬉しいことでもあったかのように全開の笑顔を見せた葵が後ろ手に腕を組んで秘密を持った子供のようににやにやしている。葛の眉がピクリと跳ねる。葵が笑っているのはいつも通りだがなんだか空気が違う。隠し事があるのは間違いない。
「今日の夕飯はさ、オレが作るよ」
葛がきょとんとした。
特に決められたわけではないが客あしらいや応対の多い葵の方が案外時間の自由がきかない。帳面や書類を相手に奮闘する葛の方が定時に切りあげられることの方が多く、自然と手の空いた葛が食事を作っていた。炊事洗濯、大抵の家事はこなせるし苦でもない。生活に必要な最低限は祖母から厳しく仕込まれている。だから葛は今日も書類を作成しながら夕飯の献立を考えていた。葛が疑わしげに葵を見る。上手い具合に客足も途切れて写真館には二人きりだ。葵が台所に立ちたいと冗談では言っても、日頃は葛ちゃんのご飯の方が美味いし、と任せている。さては皿でも割ったかと問えば葵のくっきりと太い眉がぴくくと痙攣した。
「違うよ。疑り深いなぁ、たまにはオレのご飯も食べてよ。いつも任せきりだしさ、たまには、ね?」
退く心算はないようだ。もっとも葛とて夕飯の支度にこだわりがあるわけでもない。したいというならさせてみるかと頷いた。了解を取り付けた葵は羽が生えたようにとっとっと、と独特のリズムを刻んで台所へ消えていった。さてどんな飯が出るやらと思ったが、材料は食べ物だからまさか食えぬものが出ることもあるまいと葛は閉館の看板を下げた。
普段は葵の定位置である長椅子に座って見る。緩衝材の具合が案外よくてこれは居座ったり居眠りしたくもなるな、と笑った。包丁を使う音がする。それは不意に葛の望郷を思い起こさせる。軍属の一族であったから女性陣もどちらかと言えば男勝りが好まれ、家事一般は家政婦を雇っていた。葛の記憶に両親の影は薄い。葛が気づいた時には父親はひとかどの軍人として前線に出ていたし、母の影も薄い。珍しく料理をする性質だったようだが病気がちだったか、家の中を歩き回っていた記憶はない。そもそも男孫である葛を祖母は軍人にするべく徹底した教育を施した。それに時間を取られて葛は母親の動向や事情など省みる暇もなかったというのが現実だ。気付いたら両親は家にいない人で、葛の世界は厳しい祖母のしつけで埋まっていた。
乾期の近い時期は腐敗を除けば温暖だ。とろとろと葛が微睡んだ。そう言えば昨夜は遅くまで帳尻が合わずに悪戦苦闘してから眠ったのだ。睡眠時間が短かったのだろう。どんな状態であっても平常通りに事をこなす癖がついている。倒れでもしない限り葛の変調は表には出ない。だが葵だけは別であれは何故だが気づくのだ。一度訊いてみた。お前に俺の不調が判るのは何故だ。葵はびっくりしたような顔をしてから逆に問い返すように、だって見れば判るぜ一発だ。平行線をたどるばかりであった。軍属であった頃は倒れて嘔吐するまで葛は体の不調を悟られなかった実績がある。それを見れば判ると言われて、はいそうですねとは言えぬ。葵に嘘はつけんな、と葛はくすりと口元を弛めた。こんなことを思うのもこの長椅子の所為だ、と葛は独りごちた。微睡みで情報が流出している。忘れていたような記憶さえ甦る。武士の子であることを忘れてはなりません。その一言を刻んで葛は生きてきた。持って生まれてしまった特殊能力の所為で希望した将来とはほど遠くなってしまったが、葵と言う存在が帳消しにする。葵も一般家庭とはほど遠い家庭であったと聞いている。話の接ぎ穂として語られる欠片を繋ぎ合せての推論だ。嘘でもいい。どうせ葵と葛の出会いと同居は、二人の影響力など及ばない上層部の決定事項なのだ。許容範囲内であれば連携を深めるためと言うお題目をつけて互いの過去をちらほら語った。
微睡みから目覚める。ぱち、と目蓋が開く。黒くて密な睫毛が切れあがった眦まで彩っている。あくびの名残で潤んだ双眸のまま葛は体を起こした。これでは葵を叱れんな、と転寝に苦笑した。葛の白い肌が薄暗がりの中で灰色に染まり時折不意に射す日で真珠のように照った。葛は白皙の美貌だ。葵の方が行動的で野性味あふれる動の性質であれば、葛は物静かに整った眉目秀麗と言った静である。葛が大和の黒髪であるのに対して葵は色が抜けた肉桂色の髪をしており双眸も同じ色だ。瞳孔が透けて見えるからよく白人さんとの合いの子だろうと言われると言っていた。
「葛ちゃーん! ご飯できたよー」
葵の声が葛はパンと両頬を叩いて気の弛みを引き締める。葵に隙など見せればつけ込まれるのが落ちだ。葵自身は悪意があってするわけではない分余計に性質が悪いのだ。閨に持ち越されてはたまらない。食事をする部屋へ行けばそれなりの食卓が整っている。見た目は悪くない。普段料理しないものだとは思えないほどだ。念のために後ろの台所もちらりと見るが損壊や崩壊の気配はない。葵は料理をしないだけで出来ぬわけではないようだ。
「いただきます」
葛にならって葵もいただきますと言って二人の食事が始まる。中華と和食とが混じったような料理だが味は悪くない。惣菜や白飯、露ものもある。葛好みの味付けだ。気付くと葵が窺い見るように箸を咥えてじぃっと葛を見ている。作ったものであれば評価が気になるか。葛は表情と感情が連動しない性質であり、それを葵も知っているから明確に言葉にせねばならぬ手間がある。
「美味い」
にへら、と葵の顔が弛んだ。そうするとよほど実年齢より若く見える。ただでさえ無鉄砲な行動と戦闘方法で若く見られがちであるというのに。適度に健康的に灼けた艶を持つ肌の葵の頬が紅い。
「へへへ、嬉しいな。葛ちゃんに美味しいって言ってもらえて。頑張ったかいがあったなー」
そう言いながら葵の箸も進む。二人で惣菜を残さず平らげる。汚れものの洗浄は葛が申し出た。飯は美味かったから、と台所から追い出して皿を洗う。使った調理器具はすでに洗われて水切りへ伏せてある。用意のいいことだ、と葛は思う。こんな夜であれば寝床をともにしてもいいな、と思う。葵は子供のようだ。葛にとっては日常こなす仕事であっても葵がしてくれただけで尽くしてもらったような気にさせてその好意に応えたいと思わせる。人好きのする奴だ。洗いものを終えた葛は葵にその旨を伝えた。喜んだ葵が風呂までたてて、二人ともが湯を使い終えた後、葵の部屋で抱擁を交わした。
葵の熱が流動的に葛の胎内へ入ってくるのが心地よい。興奮で火照った葵の指先と熱を帯びた葛の皮膚とが触れた個所から境界線を失くしてつながってしまったかのように蕩けた。葵は嬉しそうだがどこか悲しげに葛を抱いた。その憂いがなんであるか葛には判らなかったしその方がいいような気がして訊くのは控えた。誰しも語りたくないことはある。
「あおい」
「葛、好きだよ。本当の本当に。記憶を消されても一緒に暮らせなくなっても、例えお前が死んだって。死んだら毎日墓参りに行ってやる。墓前で喋りまくってやるんだからな。覚悟しとけ」
葛が吹き出して微笑んだ。情欲に濡れた黒曜石の双眸が葵を捕らえる。
「墓さえなく死ぬかもしれんぞ」
「そうしたら葛の位牌を作ってもらって毎日供え物して、毎日話しかけるからいいんだ。ちゃんと冥府で聞いてくれるだろ?」
嬉しかった。泣きたかった。
「お前は、優しいんだな…」
葵の指先が葛の白い陶器のような額を撫でた。行為で乱れた黒い髪がはらはらと一房二房と額を隠す。寝台が狭いことは二人が密着するいい言い訳になった。だから葛は今葵の腕の中で眠っている。緩く曲がった膝蓋骨や湾曲した肩甲骨や背骨。葵は行為中もそうでなくともことがあれば葛の体をまさぐった。葛の骨格を覚えようとするかのように。軍属であるという過去が示すように葛の体は腕力も敏捷性もあるし体捌きも上手い。戦闘と殺戮のすべを知っている体。そしてそれが可能なだけの下地はできている。
「葛ちゃん、オレ…優しくなんか、ないよ」
葛の目淵から透明な雫が伝った。それを葵の指先が優しく拭う。薄く白く澄んだ目蓋の奥の黒曜石を思う。白と黒の対比で出来上がったような蝋人形のように美しくて冷酷で残酷で、とても惹きつけられる葛。最初に出会ったときは生真面目な野郎だな面倒だなと思ったものだ。それでも暮らすうちに閨をともにするうちに葵は葛がいないと生きていけなくなっていた。
「葛ちゃん、オレはね。オレがオレとして生きるために葛ちゃんにすがっているだけなんだよ?」
明るく騒げばうるさいと叱りつけ、静かに沈んでいればどうかしたか何かあったかと声をかけてくれる。葛は感情の機微に疎いと自覚しているようだがけしてそうではないと葵は思う。ただ気付いてもどうしたらいいか判らないだけなのだ。不器用な人。無骨な人。愚かしくて優しい、人。
「葛ちゃんもオレが死んだら泣いてくれるかな。オレは葛ちゃんが死んだら泣くなぁ。だから葛ちゃんも泣いてね」
こんなこと、葛が目覚めているときには言えぬ台詞だ。言えば必ず何かあったか、と訊くだろう。葵は自分がどういう性質の人間として世間に認識されているか知っている。明朗闊達。明るく騒いで朗らかな葵に暗く沈んだ葵は不必要なのだ。だからどうしても鬱屈が溜まると葵は葛を抱いた。熱が行き交う交歓と抱擁で、暗い暗渠は埋まった。だから葵は葛がいないと生きてゆけない。それ以上に。
「愛してるよ」
完璧主義で上下関係に厳しくてきれいで、融通が利かない、不器用な葛。それになにより。
葛は今の葵を受け入れてくれている
オレにはなんにもないとオレが思っていたのに葛は。
「お前に何もない? 根なし草のような生活であったならば当然だと言っておこう。それに何もないと自覚したならば何か作ればいい。何もないと泣いていても座っていても立ち止まっていても解決にならん。何かしろ」
つけつけと正論を言い放つ葛にいたわりはない。だが同情もなかった。父なし児、と後ろ指さされるたびに葵の中から何かが欠けた。残ったのはこの特殊能力。それゆえに葛と知り合えた。
「過去や家柄をないがしろにしろとは言っておらん。なくせたならば増やせるだろう。そうすればよい」
「あはははは、馬鹿みたいだよね? でもね、葛ちゃん、葛ちゃんがオレを救いあげてくれたんだよ。空っぽじゃない。もうオレの中は葛ちゃんでいっぱいだ。だから――死なないでね」
葵が寝台から抜け出す。ぼろぼろあふれる涙で葛を起こしたくなかった。洗面所へいって葵は音もなく慟哭した。引きつく喉と気管に噎せかえりながら葵が泣いた。過干渉だ。組織に知られたらそれを理由に利用されるか引き離されるか。どちらにしても今までのような生活は送れないだろう。だから葵は黙って泣いて堪えて何もなかった顔をして笑うのだ。『伊波葛』と『三好葵』は今までどおり良好な関係で任務も遂行できますと。
「ごめん、ごめん葛…――大好きだよ…」
栓を全開にした蛇口の下へ頭を突っ込む。迸る水流が肉桂色の髪を濡らし涙や洟を洗い流し火照りを消すように冷やしていく。それでも葵は葛とともに居たかった。
「…――ばか、もの」
葛の目蓋がゆっくりと薄く開く。みるみる目淵に涙が盛り上がってくる。表面張力を突破したそれは形を失くして頬を滑り落ちた。礼を言うべきは俺の方だな。目指していた道を特殊能力によって断たれた葛は荒れた。だが行状で問題が起きたわけではない。問題は内部の方だったのだ。死にたがる。銃口へ向かっていく。葵は唯一それを見つけ出しぶん殴って止めた。死に急ぐな。激昂した葵の絶叫はどこか悲しく優しくて葛の中で何度も反響した。
「だからお前は、優しいというんだ」
こす、と葵の残りがのする敷布へ頬を擦りつけた。涙があふれた。熱の流動の名残か、葛のタガも弛んでいる。普段の堪えが大きいほどに決壊した時は派手になる。葵が涙を見せないために席を外してくれたことは嬉しかった。葵の言葉を聞いて葛は泣きたくて泣きたくて叫びたくて仕方なかった。優しくなんかない。お前を救ってなんかない。むしろ救われたのは俺の方だと――
それでも。好きだと、愛していると、言えない。言ってしまえばお前を縛る。俺なんかの慕情や感情で後々不利益があっては困るのだ。だから言わない。
好きです
愛しています
それでもそれを言ってしまったら、君は
縛られてしまう
だから
私は、言いません――
「葵、俺を思い出にしろ…」
ただ一時の夢であったと思えるくらいに。お前が好きだから、愛してるから、お前の未来を縛りたくない。
「……………俺もお前を、愛して、る」
ぎちっと噛みしめた唇が鳴った。紅い滴が吐血したかのように白い葛の頤を汚した。ぱたぱたた、と透明な滴と紅い滴とが敷布へ沁みた。別れることを前提に。この組織に所属してから葛も日が浅いわけではない。虫唾が走るような輩と組まされたこともある。それでもここまで深部へ侵食してきたのは葵が初めてだった。そしてその蝕みはけして不快なものではなかったのだ。ひゅう、と喉が鳴った。葛が寝台に伏して泣いた。すぐに泣きやむ。痙攣的な呼吸も洟もすぐ止まる。それでも涙だけは止まらなかった。
葵が好きで
でもそれを言ってはいけない
黙って思うことさえも出来なくなるかもしれないから
それであれば初めから黙って想う
「あ、おい――…!」
敷布や毛布をまとい乱しながら葛もまた、慟哭した。
《了》