醜く、貪りあう


   「君を守りたい」という致死量の毒

 駆けだしそうに膝が折れて葵はその場で、犬のように舌を出して喘いだ。隣の壁では葛は珍しく服装を乱したまま、壁に肘をついて息を整えている。本業としてもぐりこんでいたことが露見し、末端にまで粛清の手が伸びる。葵と葛は末端にいたことが幸いしてか追っ手さえも顔を明確に知らない。組織はありとあらゆるものをその腹に含み結果崩壊し、腐敗し、理不尽な粛清ばかりが続いた。葵と葛にとって幸いであったのは末端であったことと、組織が肥大しすぎて正確な把握をしている人物が少数であるということだ。
 「こりゃあ失敗だな、狸親仁にどやされる」
よっこら、と声を上げて立ち上がる葵の目の前で突如刺客が現れる。現地言葉で罵りながら子刀を投げつけてくる。葛の特殊能力と考え合せて葵は逃げないことを選んだ。ひょうと放った小石が葵と男の中間で衝突して粉砕される。夜半の路地裏であったことが幸いした。けばけばしい広告灯の紅や青や白は鮮烈で時折視界を白く燐光に包む。錯乱して次々に投げつけられる小刀を葵は粉砕し続けた。
 時間が。目を逸らせない以上いつも目安にする時計の盤面は見られない。そろそろか、と体感時間で限界を悟った葵の目の前で男が砂袋のようにぐしゃりと崩れ落ちた。その男の首に絡まっていたのは葛の腕だ。袖口に男の吐瀉物や唾液が付着して広告灯でつやつやと光った。
「行くぞ」
葛はすぐさま背を向ける。葛も特殊能力に使用制限がある。同じ場所に留まることは身の危険性と比例する。葵は素直に従って動かない男をまたいで駆けだした。


 写真館の裏口から足音を忍ばせて戻る。もちろん尾行は撒いた。葵はへなへなとその場へ座りこんだ。恐怖と言うよりも強い疲労の所為だ。能力を使うのはかなりの熱量を消費する。常人にはない強みがある分、負荷も大きい。葵は虚ろに眠りそうな頭のままで葛が明かりをつけないことに気付いた。
「明かり、つけろよ、見えないだろ」
びく、と葛の指先が震えた。上着を脱いだ葛は白いシャツを着て白い肌をして、まるで月のように発光しているかのようだ。だが問題はそこではない。葵は直感を信じている。葛は意図的に明かりをつけようとしていない。
「オレがつけるよ」
スイッチへ伸ばした手が包まれる。仄白いようなそれは葛の手だ。眇めるようにして見返す葵に葛は俯いたまま、二階へ行こう、そこでならばと言った。互いの自室へ誘うということは二人の間に意味のあるコードだ。
「本気か」
「無理強いは、しない」
葛の声が脆く固くて硝子細工のようだと思う。常の葛にはない。いつもの葛は上から言いつける物言いで、自己主張を頑として譲らす、流儀も取り入れない。特殊能力も必要がなければという言葉通りに滅多に使わない。
「どうせばれることだから、俺から見せておこうと思っただけだ」
葛の手が離れた。そのまま階段をきしきしと昇っていく。葛自体が発光しているように仄白いような錯覚は蛍のように儚くて、葵はその後を追わずにはいられなかった。二人が動く空気の流れの中でツンと鉄錆の臭いを嗅いだ。葛が怪我でも負ったのだろうか。葵は能力を使って疲労している割には要領よく切りぬけてかすり傷で済んでいる。

 葛の部屋はいつ見ても綺麗だ。卓上灯の橙色が寝台や日よけを卑猥に染める。調えられた寝台。筆記具の収まっている筆立てや片隅へ寄せられている帳面。造りつけの棚へ収まっている蔵書。葵は葛の部屋に何度も足を踏み入れているか探索はしたことはない。葛のことを知りたい気持ちは、好意を抱くものとして人並みに持っている。だが人並みですまない環境が葵を用心深くする。ほら、今日のように。これでもし葵がつかまったとして。自白を強要する薬など非合法世界には溢れている。知らないことは喋れない。それが唯一にして最大の武器だ。
 「葛から誘ってくれるのはすごい嬉しいよ、でも、なんだか…へんだよ」
葛の怜悧な頤から滴が垂れた。
「あ、いや、な、泣かせちゃったらごめんでも…――」
一定の感覚で垂れる雫。白いシャツにみるみる咲くのが紅い華であることは卓上灯の明かりだけでも判った。
「か、葛、葛、お前、怪我ッ、まさか怪我して」
肩を掴む。払おうとした葛の腕より刹那、速く葵が葛に前を向かせた。

耳の下から目頭まで、その白い頬に深く紅い線が刻まれていた。
ぷッくりと艶っぽく膨らんだ紅い滴は自壊して流れをつくり、葛の細い頤へと集束して垂れた。

「…顔に、怪我…」
「たいしたことではない」
葛の言葉で葵はその原因が何であるかを悟った。葵に投げつけられた小刀の粉砕した破片だ。二人とも動かない相手を的にしていたわけではない。葛も葵と同じく能力を使って相手の背後を取るなり拘束するなりしようとあがいていたのだ。葵の粉砕した小刀の切っ先は不規則に飛んで姿を現した刹那、葛の眼前に迫り咄嗟に顔を反らした。破片は葛の頬を線を引くように抉るとどこかへ飛んで消えた。
「おれの、せい」
「違う!」
葛の否定は鋭く響いた。葛は乱暴に頬を紅く染めるのを袖口で拭う。白いシャツの袖口から、まるで濃淡の彩りのように血が沁みていく。
「違わないッ! オレの、オレがぶっ壊した小刀の破片で負ったんだろ、そのくらい想像つくさ! あの時オレは、葛がどこにいるかなんて全然、考えてなかったんだ…」
葵は気づいた。この粉砕さえ可能な能力は両刃の剣であることを。特別なことの影響力は良い方向にばかりはいかない。間接的に直接的に、葵の力はほらこうして葛の皮膚を裂いてしまった。
 「…ッて、手当て! 手当てするッ」
葵はバタバタとあたりの戸棚を開けた。抽斗も引っ張りだす。緊急用の手当て用具を見つけた葵は葛を寝台に座らせると手当てを始めた。幼いころ、生まれについてはからずも暴力の標的になった経験から葵には一人で手当てする技が身についている。綿布で傷口を拭うと葛の白い頬がぱっくりと裂けているのが見えて、葵は痛いように目を眇めた。垂れた跡も拭ってから消毒液を吹き付ける。傷ごと頬を覆うように大きな布地をあてがい、その上から布留の粘着テープで固定する。出来るなら包帯を巻いてしまいたいくらいだがそれは葛に拒否された。傷口にあてがわれているのが柔らかい布地であるか包帯であるかで印象が変わるからあまり重傷には見せるなと葛から指摘された。葵は何度かそれに沿うように手当てをし、道具を始末する。
 ぱたん、と小箱を閉じれば包帯や消毒液の臭いが薄れた。
「一人で、手当てするつもりだったのか?」
「当たり前だ。自らが負った傷は自らで始末する。誰がつけたかなど問題ではない」
「死にそうな傷でも?」
へにゃりと葵が笑った。それはもうどうしたら良いか判らない子供のように無垢で無知で、泣きだしそうだった。
「自らの落ち度は自らが埋めるべきである」
それはもう痛いほどに正しいことだ。本業である組織の基本理念にも沿っている。不出来をしでかしたなら補うべきは当人であってその方法に生死は問われない。
「いやだ」
頑とした葵の声に葛は漆黒の玉眼を向ける。葛の漆黒はいつも潤んだように艶めき水輪を感じさせた。
「オレはオレの知らないところで葛に死んでほしくない傷ついてほしくない。オレも葛を傷つけたり死なせなくない、なのに――」
葛の手がわしゃわしゃと葵の肉桂色をした短髪を撫でる。
「事故と言うものもある」
「でも、顔だ! もしかしたら目だって潰していたかもしれない! オレは、オレは葛を傷つけたんだ」
へたり込んだ葵の手が葛の腕を掴む。紅と淡桃色の濃淡がついた袖を葵はすがるようにしがみつく。

「オレは葛を守りたかったのに」

「あおい」
葛の声が優しい。葛の声は優しくてもけして甘ったるいような媚びはない。穏やかで、物静かに、その声が相手の体中に沁みとおるかのように、それはどこか、仏壇の鈴の音に似ていた。
「それはお前のためなのか。お前自身のためにお前は俺を守るのか? それとも、本当に俺を好意から守ろうとしているのか?」
俯けていた葵の表情が凍った。目が見開かれていく。数瞬の後、葵は俯けていた顔を上げた。泣きだしそうなそのままの笑みを浮かべて。
「そうかもしれない。オレはお前が好きなんだ。だから、好きな人には傷ついてほしくないって、オレの勝手な感情かも知れない。でも、」
葛の腕を掴む手にぐっと力がこもる。
「だからオレは、お前が痛かったり辛かったりするのは嫌なんだ!」
 応えは貪るような口付けだった。挑発するように葛の舌が葵の舌に絡む。葵は寝台に座らせていた葛を押し倒した。唾液を流しこみ、呑みきれずに溢れる。互いの頤が汚れる。
「お前はお前のために俺を守るんだ」
「違う」
「違わんさ」
葛がくすりと微笑んだ。
「俺も同じだからな」
葵の目がパチリと瞬く。眦にぷつんと小さな水晶が生まれた。

『誰かのため』にが『誰かの所為』に変わってしまうから
おれはおれのために君を守るよ。

葛はシャツの釦を弾き飛ばすように前を開いた。
「さぁほら、犯せ。俺はお前に犯されたくて仕方ないよ」
薄く汗をかいた皮膚は透明な照りを帯びて、白皙の美貌はどこか官能的に息づく。濡れ羽色の髪の乱れや睫毛、眉、その全てが葵を魅了する。血行が良くなるときほど紅く熟れたように触れたくなる唇。蠱惑的な唇が囁いた。
「俺を、抱け」
葵はけがや疲労も忘れて葛の体を貪った。
 広告灯の紅や青や白やのけばけばしさの狭間に見える橙の卓上灯。様々な照明なはだ、二人分の裸身が蠢くさまを卑猥に照らすだけだった。


《了》

またノーチェックゥゥゥ!(しろったら)
それでも一応葵×葛になっているかしら…だといいな…
お楽しみいただけたら幸いですvv
リクエスト話です。                         2011年8月21日UP

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