睦言でさえ胡乱な、
 おれたちには


   言葉になんかしなくても

 港がそう遠くない土地柄として風は潤みのように潮を含む。外壁や扉はすぐに白く霞むように傷み、強い海風は湿りを帯びながら砂を巻き上げてざらついた。車も通る通りであれば煙ったい排気が風に乗り、磨かない硝子はすぐにうっすらと曇りを帯びる。店じまいをしながら葛は人気の絶えた往来を眺めるともなく眺めた。夜闇に沈むほど人が増える商売は少ないから、人々の活動拠点はすでに屋内に移っている。香ばしい胡麻や蒸し物、炒め物といった香りが鼻をくすぐる。淡々と片付けながら階上に引き取った葵の後ろ姿を想う。この店舗とは全く別に葵と葛双方が本業を抱えている。同じ団体に属するはずであるがあてがわれるのは別口であることも多く、片方が家を空けるのも少なくない。
 ひとつ屋根に暮らすうちに、同じ性別であることや現状の都合などから二人は肉体的に関わるようになっている。いつでも発てるような身軽であることは絶対条件で、一身上の都合はまったく考慮されない。特定の恋人でも作ろうものならば敵味方の関係なくそこへ付け込まれることは間違いない。関係を築くにあたって葵は一言だけ言った。オレはもう誰かを待たせるのは嫌なんだ。矛盾や不条理を感じながら葛はただ、そうかとだけ返事をした。葵の言葉の意味も由来も葛には判らない。葵も詳しくは語らなかった。葵とは世界が違うとだけ思った。
 葛は命令を受けつける場合の方が多く、明確な優劣や上下の世界であったから、自分の都合や好みを周りに合わせてもらうという考え自体が希薄だ。人が合わせるのを待つくらいなら自分を捻じ曲げる。葛の中にはそれしかなかったから葵にもそう言ってある。葵は驚いたように我慢が利くんだなと感心していた。堪えるほどの自尊は多分、葛の中にはないと知っている。わざわざ知らしめるのも億劫な気がして言わなかった。問い詰められたところで煮詰めて考えたこともなかったから言及を避ける。
 戸締りや備品の点検を終えて階段を上る。きしきしと洋風な造りの階段が鳴った。手すりが磨かれて薄く照り角が取れてどこか丸い。上りきったところで扉が開いて導のように葛を誘う。互いに私室を割り振り、灯りが漏れているのは葵の部屋だ。口にするのもはばかられる関係であるから互いの意志表示としていくつか暗黙の了解が自然とできた。無理に付き合わせないこと。了解を得ること。昼間の生活に後が残るようなことはしないこと。葛は真っ直ぐに葵の部屋の前へ立つ。開かれている戸を軋ませて開けるのは了解のしるしだ。寝台に寝そべっていた葵が跳ね起きる。その表情が見ていて判るほどにほころんだ。後ろ手に戸を閉めながら葛の体がじりりと後ずさった。
 葵の部屋はどこか甘い匂いがする。露店の蜜菓子などを持ち帰ることも多いからかもしれない。けれどこの部屋や葵から匂い立つような甘さはくどく絡むこともなくすぐに馴染んで消えてしまう。戸口から動かない葛の手を葵が取った。いつもしている腕時計をしていない。枕辺の小卓へ置かれていて、卓上灯の灯りを鈍く反射していた。橙色の卓上灯は範囲も狭く舐めるように輝いている。薄暗がりの夜の視界はこれからの二人の淫靡な行動の象徴のようだ。明かりの赤みを含んで肉桂色のはずの葵の髪は燃え立つ赤毛に見える。双眸も透明に澄んで虹彩や瞳孔が見えるようだ。ぱっちりとした葵の眼は悪戯っぽく瞬き、睫毛さえも明かりに透ける。
「姫、ありがとう」
取った手の甲へ葵は恭しく口づける。払いのけるのも馬鹿らしくて葛は何も言わなかった。葵の行動様式は時折欧米の色を含んだ。どこで覚えてくるものか、そういうことが嫌味になるかならぬかのきわどさを繰り返す。厭味な時はもっと刺が明確に判る。
 さぁ、こちらへどうぞ、簡素な寝台で申し訳ない。口上を述べてから葵が吹き出して腹を抱えて笑いだす。葛だけがどうしたら良いか判らず黙っている。葛はどうも冗談に対して機転が利かない。だからつまらないだろうと思うのに葵は葛に何度もこういう冗談を吹っ掛ける。そして一人でひとしきり笑って、ごめんでもいい顔してる、と得意げに口元を弛めた。葛はいつも呆れたようなため息をついて、けれどそのため息の対象には少なからず己も含まれた。
「どうしたんだ、葛」
立ち尽くす葛を下から窺い見るように葵が覗きこむ。そうすると葵の大きな眼がさらにくっきりと見える。明瞭な目元や細い首をしているが葵に女性性は感じられない。薄く笑んだような唇も凛とした眉筋も利かん気の強い性質も葵の性別を真っ当に主張する。葛も自分が女っぽいと思ったことはないし言われたこともない。体つきで言えば葵より訓練を受けたことのある葛の方が出来上がっている。葵を退ける腕力や敏捷性がないとは思ってない。それでも押し切られてしまうのはもっと根底の、枯渇したような情動や欲望の差かもしれない。葵は欲しいものがあるときや手に入る見込みがあるときははっきりと欲しいという。行動も起こす。葵の体は命令以外に、葵の自意識による欲望でも動く。葛は己にそれが致命的なほど欠けていることにも気付いている。
 「馬鹿を言うな」
歩きだす葛は靴裏が粘ついて地面から離れないような錯覚さえ覚えた。ねっとりとした拘束は奥底まで沁みて思わぬ強さで葛を縛る。細い糸のように絡んで気付いた時には深く深く皮膚を裂くほど食い込んでいる。四肢を失くすようなひどい痛みに喘ぐ将来が見えるような気がして葛はいつも苦い思いをする。いつかきっと自分は何も出来なくなると思う。
「大丈夫、オレが馬鹿になるのは葛の前だけだから」
「それが馬鹿だと言っている」
へらりと言って退ける葵に葛は目を眇めて肩を落として見せた。
「なぁひとつ訊いてもいいかな」
前置くのは葵にしては珍しいことだ。葵の言いだしはいつも唐突で話題の転換もそのきらいがある。
「なんだ」
葛はどさりと寝台へ腰を落とした。真正面へ立つ葵はそびえるようだ。橙の灯りが逆光になって耳の裏など灼けるほど明瞭なのに表情は薄暗がりでよく見えない。

「葛はどうしてそんなに葛が嫌いなの」

うん、今日の夕飯はおいしかったな。日常会話の延長の調子で葵はさらりと問うた。葛もどこか穏やかなままその問いを受けた。自身を省みればそこへ行き着く。自信も自己嫌悪も過剰であると思ったことはない。だからその答えはいつも一つで。

「俺は嘘が嫌いだ」

嘘は卑怯だ。真っ当に生きろと厳しく諭された所為もあるだろう。軍属には従うべき正しさのようなものがあって正誤がはっきりとしている。嘘は結果や行動を歪ませる。忌むべきものであり忌避すべきであり唾棄すべきものである。それでも葛が赦せないのは嘘をつかねばならない現状ではなく、それに対して何も出来ない己が赦せない。
「――うそは、きらいだ」
俯けた視界で拳が握られる。膝の上でぎりりと鳴るその引き攣る痛みに落涙を堪えた。葵は朗らかで正しくてもっと柔軟だ。許容範囲も広い。葛とはあまりに違っていてだから気になる。どうしてそうなるどうしてそうなんだどうして俺には出来ない。どうしてどうしてどうして。どうして俺は、こんな、なんだろう。
 噛みしめる唇が引き結ばれる。はっと目を上げれば眼前まで葵が迫っていて葛が仰け反るように震えた。反射的に後ずさるようなそれでも葵は気を悪くしたようでもなく、じいいと葛を凝視している。聡明な双眸が葛を見つめてから小首を傾げる。
「うん、やっぱり葛は好いな」
話が判らない葛を置いたまま、葵は何度もうんうんと頷いては納得しきりである。
「どういう、話だ」
怪訝そうな葛に葵はうん、と頷いた。
「葛は今まで嘘ついたこと、何回くらいあるんだ」
直截的な問いに葛が言葉に詰まる。嘘は嫌いであるがつかないこととは別だ。何度も繰り返している。そもそも繰り返しているから嫌なのだ。団体に所属する原因とも言える特殊能力は吹聴できるような価値を葛は認めておらず、隠すための嘘は何度もついた。目を伏せて途切れ途切れに応える葛に葵はふむ、と唸る。
 乾いた音を立てて葛の頬が抑えられる。添えられた葵の手が葛の顔を上向かせて、そこには葵の真っ直ぐな視線が待っていた。肉桂色の双眸は紅を帯びて蘇芳に煌めく。短く切られた髪の毛先はてんでの方向を向き、それでも全体としては形を構成している。襟足は刈り上げたようにすっきりしていて、指先を這わせて滑らかな皮膚に触れることができた。葵はにっこりと人懐っこく笑んだ。
「オレは葛の本当にも興味があるな」

オレは嘘が悪いとは必ずしも思ってない。
でも、嘘をついたらほんとうも見せてほしいと思う。
嘘だけついて何も見せずに何もなかったふりをしないで。

「オレにももっと、葛を見せて」
そのまま唇が重なる。葛の漆黒は怯みも揺らぎも見せずに瞬いて葵に視線を据えた。葵は微笑みながら照れたような困ったような泣きたいような顔をして口の端を吊り上げた。這わせられた葵の爪先が葛の胸をつねる。切ないような悲しいような愉しいような、歪で淫らな感情が葛の裡を駆け抜ける。つねられた胸の突起が固く尖る。葵はきつくつねりあげながら優しく撫でさする。筆で刷いたように一筋、葵の睫毛が長い。凛とした男っぽさの中に和らぎがあるのはそれの所為だ。
 葛の体が傾いで寝台を軋ませる。壁に頭が当たりそうで葛は身じろぐのを繰り返して体勢や位置を変える。葵も心得ていて助けるように襟を掴んで葛の体を浮かせた。ぼすんと枕に葛の頭が沈んだところで本格的に葵の指先が色を帯びる。葛も拒否しない。襟や釦を解かれても押しのけもしない。口付けに火照った葛の体は白く雲母のように所々で煌めきを有した。白く発光したような葛の胸部や腹部に葵の喉が鳴った。葛は静かに息をした。胸部が緩やかな膨張と収縮を繰り返す。軋むように開く胸骨の内側で臓器が膨らむ。腹部も呼吸に連動して蠢く。汗ばんだような雲母引きは橙の卓上灯に淫らがましく光の粒を散らす。
「綺麗だよ、葛。嘘でもいい。お前がオレにくれるものが嘘でもいいよ」
触れる唇から体温が行き交う。ゆっくりと固体を融かすように侵蝕は緩やかで甘く優しくさえある。葵の指先が葛の肩や頸へ触れた。整えられた葛の黒髪を梳くように撫でてから一房下りている前髪をもてあそぶ。葛の切れあがった眦に唇を寄せる。それでも葵はどこかしらで許可を求めるように強引には及ばない。葵の爪先は桜色と白色が濃淡を成して不要な尖りもない。皮膚を引っ掻くこともなく滑らかだ。その硬質な心地よさに震えながら葛は身じろいだ。
 
「葛、オレ達のチカラにもきっと理由があるよ。だからさ」
だからそんなに自分を責めないで

葛の瞳が集束した。見開かれて動けない葛の肩を抱いて葵はゆっくりと熱を含ませる。
「生まれてくるからには理由があるんだ、きっと。だから、だから、そうでなきゃあ…そうでなきゃ、オレは」
葵の言葉が揺らいだ。葵も己の存在理由に対する欠損を抱えている。あれほど朗らかで明るくて屈託ない葵でさえ欠損を抱えている。
「りゆうがなかったらおれはすぐにでもしんでしまうかもしれない」
葛は葵の体を抱擁した。きつく爪を立てて抱きしめ腕をまわして、葵の肩甲骨を抉るように爪を立てた。そんな痛みにさえ葵は泣き出すように笑んで礼を言った。

傷の舐めあいでもいい
闇を舐めあっていると知っている

せめてきみがおれをゆるしてくれたなら

虚ろで胡乱で、ただそのままに
形になんかならなくて良かった。


《了》

微妙に表に留まった。誤字脱字ノーチェック!(しろよ)        2011年4月25日UP

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