それは可能か?


   見えない顔さえも愛せるか?

 葵はたいてい騒がしい声とともに帰ってくる。写真館の扉を開きながら威勢良く相手に言い放つ言葉は、時折葛が眉をひそめるものであっても世間的には真っ当な悪態だ。諍いや罵倒をこなせるほど現地の言葉に精通しながら葵は風土にも馴染んでいる。育ちの良さが見えるような顔立ちを見なければ現地の玄人のようでもある。駆け引きが上手く、妥協も知っている。意見と利益の擦り合わせ方を知っていて同時に相手さえ勢いで納得させる。物怖じしない性質と人懐こい雰囲気で、写真館を営むにあたって挨拶に回った人数以上の知己がいる。小間物を譲り受けてくることもしょっちゅうあり、その分身銭を切ってもいるようである。それでも自分の範囲内で事を済ませるという暗黙の了解のもとでやりくりしているようだ。葵と葛が知りあった過程において私情はなく、より上位のものの計らいで同居している。無駄な諍いを避けるべく二人が取り決めたのは互いの干渉を控えるということだった。交友範囲の重なりも少ない。葵と葛では性質が違いすぎるので当然の結果ではある。
 葛は規則正しく帳面を繰りながら扉の外の気配に耳をそばだてた。必要事項を記入する手が時折、止まる。気配は長く居座りながら舗に用があるというわけでもないらしく、年配の婦人が玄関先でする長話の様相を呈している。漏れ聞こえてくる快活な声が葵のそれであることにしばらく前から葛は気づいていた。長い用事ならば上がってもらえと思う反面で、本業にかかわることであったならという懸念がある。葵と葛はともに同じ仕事に従事しているがその日程や内容は重ならず、また互いに知らない。干渉の忌避は本業にも表れていて、余計な手出しは無用ときつく言い含められている。その切り捨ての容赦のなさはこなしてきた仕事の内容から窺える。
「じゃあな、あぁそうだ、ちょっと待て」
鐘を鳴らすようにけたたましく扉を開いて体を滑り込ませた葵が踵を返す。帰ってきた葵に一言言いつけようとした葛が腰を上げたが踵を返されて居場所がない。葵はごそごそと隠しを探っていたが見つけ出した小銭と飴玉を放った。受け取ったのはまだはにかむような幼さが残る少年だ。現地の言葉で元気良く礼を言って駆けだしていく。
 「葛? どうした」
葵が腰を浮かせたままの葛に気付いた。感知していない葵の不思議そうな顔に無性に腹が立った。ドスッと腰を下ろして帳面にかじりつく。そもそも葵の動向を気にしてどうするのだ、と一人ごちる。葵はこたえもせずにゆったりとした応接へ腰かける。そのまま何をするでもなく機器のチェックや具合の確かめに没頭している。
「葵、さっきの子供は」
「へ?」
「無暗に小遣いを与える必要はないだろう」
広い大陸の気質として明確な格差がある。温情を見せればつけ込むだけのしたたかさがここの気質として根強い。安易な温情をかければ立場は逆転しかねず、油断はできなかった。
 唇がくぅと弓なりに反って笑う。葵のそういった表情は意外で、葛の対応が少し遅れた。葵は見た目通りに直情的だ。否か応かはすぐさま返事をするし己がするべき仕事も承知している。決断を決めかねて利益を吊り上げていくようなしたたかさは見せない。葵の口元に浮かんだ笑みはある種弛みのようでもあって、葵の性質にはそぐわない。葵は葛の躊躇に気付いたかのようにいつも通りの笑みを浮かべた。それは葛の認識している葵という人物像の枠を外れないものだ。葵の深淵が見えたような気がして葛の背筋を震えが奔る。葵は周りに己がどう映っているかを知っていてなお不一致の無いように振舞っている。
「たまには物分かりのいいお兄さんであろうと思っただけだって。美味そうな蜜菓子があったけど持ち合わせが足りないって言っていたからちょっと使い走りしてもらったんだ」
「なにを」
「それは秘密。オトコドウシの約束だからな」
「子供を手懐けるのは上手いらしいな」
葛の嫌味にさえ葵はふふっと口元だけで笑う。唇の前に指を立てて葛の不満を黙らせる。静かにしろというジェスチャーにむっとしながらも葛が黙る。葵が少し尖らせた唇の紅さが目に付いた。
 葵は足音を忍ばせて扉の方へ向かう。硝子を張った扉ではあるが採光の関係もあって目隠しをしてある。
「誰だろうな? 少し前から様子を窺ってるんだ」
葵の手が唐突に扉をあけると旅支度の青年がつんのめるようにして飛び込んでくる。呆気にとられている葛の前で青年は早口に何事かを口にした。体勢を立て直してからは身ぶりが加わり、何事かを一方的に言いつけている。だいたいにしてこの国に根付いている現地の言葉は早口で紋切調のきつい口調なのだ。黙って聞いていると怒られているような気になる。加えてしきりに喋る口調には方言が強く映っているらしく時折知識と食い違う。葛も暮らすものとして言葉が判らないわけではないがそれでも聞きづらいのは確かだ。まして厄介なことにここの言葉は抑制が何通りもなりそれだけで頭が痛くなる。
 青年の言葉を聞いていた葵は不意に笑いだす。見た目通りに快活な笑い声で不愉快は感じさせない。
「そっかそうか、そうだな。この店構えじゃあちょっと道を訊くのは勇気がいるよな」
隣近所に飲食店や小間物屋も店を連ねている。それでもこのあたり一帯は一様に富裕層を客層に持つ所為か単価が高い。葵の説明では青年は田舎から出てきたが道が判らない、訊いてみようと思うのに開いている店先は手が出ない価格であるから訊ねものをするのも気が引ける、混雑していないこの写真館ならまだ対応してくれるだろうかと様子を窺っていたという。一気に喋り出したのは引け目から来る対抗意識と不慣れな土地での緊張のせいらしい。葵が穏やかに通りへ出て青年に案内する。噛みつかんばかりだった青年の態度も和らいで二人で笑いあったりしている。なにを話しているかは葛の位置では聞き取れない。それでも和らいだ青年の態度や葵の仕草のいちいちが気に障る。この不機嫌がどこから来るのかさえ葛には判らない。こうした近所づきあいも含めた客あしらいはたいていの場合葵がこなした。葵の方が向いているというのもあるが、警戒されないことが大きいだろう。人懐こい性質の葵は身形にそれがにじみ出ているから話しかけられやすいのだ。
 青年と別れた葵が葛を認めてふふっと笑う。わざわざ葛の向かいに腰を下ろす。
「葛ちゃん何怒ってんの?」
葛は容赦なく怒りを爆発させた。ばんと強く机を殴りつけるも葵はたじろいだ様子もなく面白そうに葛を見ている。俯き加減のまま顔を上げられない葛を知っていて煽ってくる。折れた帳面のページを大袈裟に直すのもその一つだ。転がるペンを取って片づける。
「なに、怒ってんの?」
「…――別に」
ほとばしりそうになる憤りを抑えこんだ葛の声が低い。葛自身この憤りに正当性を見いだせないから強く出られない。言いがかりであると知っているから言い返せない。

 「オレが誰とでも話せるのは誰のことも何とも思ってないからじゃない?」

葛の漆黒の双眸がひたりと葵に据えられる。葵は色素の抜けた肉桂色の短髪を揺らし、双眸を輝かせる。
「好きなやつが相手なら与える影響を計算しちゃうから気軽には話せないな。でもこういうことを言うってことは葛のことをオレは」
葛の頭の中で逆説的な説明が埋まっていく。想う相手に好きな人がいるんだと打ち明けられるのはこんな気分なのだろうか?
「なんちゃって。でも葛のこと信じてるから言えるのかも。どっちだと思う。オレの言葉信じる? 信じない?」
オレは葛のことどう思ってるかな? 好き? 嫌い? それとも何とも思ってないかな?
葵は秘密を話すときのように口元を寄せて囁く。紅い唇が尖って立てた人差し指に添えられる。仕上げににかっと笑われて葛の負けが決まる。
「――ば、か! 馬鹿ばかり、言って!」
「でもほら、こうして言えるのは好意が前提かもよ」
たどりつかれたくないときに二人の対応は違う。葛がきっぱりと拒絶するのに対して葵は上手く矛先をずらしてしまう。諍いが多くても亀裂には至らない葵の上手さはそこにある。この処世術は葛では出来ないものだ。
 肩から力が抜けた。何度向かっていっても葵ははぐらかす。言いたくない時、葵は口を割らない。その頑固さは葛にも通じるところがあるから厄介さも知っている。葵に憤りを感じた時点で完全に葛の方が分が悪かった。葵は何もかも知っているかのように鷹揚な笑みで葛を包む。いつか噛みついてやると思いながら包まれることに対して不快感がないことを葛はまざまざと見せつけられた。葵の手が葛の頬を押さえる。そのまま唇が重なった。葵の舌先が促すように歯列をなぞり、その応えとして葛は舌を絡ませた。甘く吸われて葛の体から力が抜ける。抵抗の片鱗として葵の手首を抑えていた指先はしがみついてから落ちていく。葵は何度も角度を変えて味わってから葛を解放した。濡れた唇の融けるような同調が唐突に終わる。
「…からかっているのか」
「甘えてるのかも」
憤りを感じながら受け入れてしまう気怠さに鈍る葛に、葵は明朗な返事をした。朗らかでありながら拭えない影が映る。憂うように目を眇める葵の癖が何に根差すものか葛は知らない。
 気遣うように葛はいつも沈黙する。言葉を重ねても解消されないその憂いを思えば無為にかける言葉もない。葛の気遣いを感じ取った葵が屈託なく笑い、それでお開きだ。二人の決まりきった手順は何度も踏まえられて繰り返された。
「でもオレ、お前のこと嫌いじゃないから」
立ち去る背中は何も言わないはずなのに今日はほろりとそんな言葉をこぼす。怪訝そうに柳眉を寄せる葛に葵はひらひらと手を振った。
「つてを頼るときの身の置き所の無さくらいは、知ってるつもりだけど。ほだされたかな」
返事をしないのは気にするなということであることが判るくらいには、葵は葛と寝食を共にしている。葛も余計な同情はしない。無駄な言葉もかけなかった。葛の性質として口数の少ないことが常態になっている。葵もそれを承知しているから責めたり不満を言ったりしない。
 「なぁもう一回キスしていい?」
思いついたように振り向く葵に葛は帳面を投げつけた。


《了》

なにこれなにこれ?!(動揺中)
葵と葛に対して過大な期待をしているよね!       2010年9月8日UP

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