久しぶりだから我慢できない


   間食

 繁華街でのちょっとした食べ歩きは行儀の悪ささえ気にしなければ案外腹が膨れるものだ。用事を済ませた帰りに通過しながらわずかな出費で腹の足しにする。蒸しものから立ち上る湯気や軽快に揚げられていく菓子、まとわりつくような蜜の香りは食事を済ませていない空きっ腹には耐えられない。経費として計上されなくとも懐が痛まない額で買い物をする。用事が済めばその後は好きにしていいとのお達しであったからなおさら財布のひもは緩んだ。腹の虫を誘うような香ばしい香りを吸いこみながら、葵は大蛇の様にうねる人の流れからはずれた。広い通りの細い路地へつながるような隙間へ身を滑らせると息をついた。元来人ごみや混雑が気にならぬ性質ではあるがこの地に特有の雰囲気は時折抜け出したくなる。
 菓子にかじりつきながら絶え間ない人の流れを見るともなしに眺めた。油紙で持ち手を包んだ揚げ菓子が口の中で広がる。葵は隣に佇んでいる売人に小銭を放ると茶で満ちた器を一つかっさらう。露店は手間のかからない揚げ物が多く、自然欲求的に飲み物を扱う店も増加した。つまみあげた器を傾けて口の中へ注いだ茶ごと咀嚼した菓子を嚥下する。葵の隣に立つ男は身なりもしっかりしていてそれなりの基礎があることを窺わせる。目線を投げた葵は知らぬふりで菓子をかじる。帽子をかぶっているので明確な人相は見えない。それでも通った鼻梁やきちんと閉じた唇の紅さが目を惹く。店に隠れるようにしてたたずむ男の目がどこを向いているかさえ悟らせない。
「食う?」
ずいとつきだす食べさしに葛はむっと不機嫌そうな表情を隠さない。わずかにあげた顔が葵をひと睨みする。葵は応えるでもなく隠しを探って煙草を探り当てる。
「じゃあこっちはどうですか、旦那。舶来の紙巻きだ」
嘆息して肩を落とした葛が一本抜きとると葵の手に小銭を滑らせた。葵はろくに目線を向けることもなく葛の目の前に燐寸を差し出す。受け取った葛が慣れた手つきで燐寸を擦り、火をつける。煙草へつけた後の燐寸をいちいち振って消火するあたりはしつけがいい。葛は黙って前を見ていたが不意に帽子を脱いだ。
 「売人の様な物言いをするな」
葵の隣へ寄り添う葛が釦を一つ外した。帽子を手持ち鞄に収めてしまう。あらわになった彼の額は賢しさの様に白い。葵は片眉だけ上げるといいのかと確かめた。彼らの仕事は表沙汰にならぬ事ばかりで、立場や内容が露見しては不味いことも多い。葛は与えられた仕事は今終わったとあっさり告げる。仕事の性質は機密も多く、与えられた指示以外のことをすれば逆に悪い結果を招きかねず、余計な手出しは無用であると言い含められている。葵も深追いはせず、そうかとだけ返事をした。さくりと軽やかな音を立てて食む様子を葛が流し見た。葵は再度菓子を差し出す。
「一口、どう」
葵が濡れたように艶めいた唇をぺろりと舐め拭う。葛は素直に菓子を受け取るとかじった。ぴく、と柳眉が震えて葵は笑いを堪えた。黙って口に含んだ分を咀嚼しているが新たに食いつく様子はない。目を輝かせて葛を見ている葵を葛が軽く睨んだ。
「甘い…」
「揚げたやつに白蜜をかけてある。妹や弟にどうだって売りこまれた。食べてみれば案外美味いだろ?」
「…不味いとは言わんが…たくさんは、要らない…」
「はは、確かにな」
必死に嚥下しようとしている葛の様子に葵が笑いだした。幼い子供が好むような甘味を、煙草の後ともなればひとしおだろう。判っていて誘った。葛もそれに気付いているからなおさら恨めしげに睨んでくる。
 袖をまくりあげている葵の手首で腕時計の盤面がちかりと光る。時刻を確かめてから葵は目線を人ごみへ戻した。葛がごくんと嚥下する音が良く聞こえた。白い喉が引き攣るように動いて喉仏が上下する。葛の肌は白く顔立ちも整っているから人形じみている。形の良い頤やすんなり伸びた首など観賞に耐えうる美しさだ。それでいて当人の服飾は簡素なものも多く、必要以上に凝っている様子もない。なんだかもったいないと思う。切れあがった眦は鬱陶しいぬくもりを感じさせない怜悧さで、漆黒の双眸は潤んだように揺れた。葵が手首の時計を気にするように葛の目線もその盤面を追った。
「ほら」
葛が一口かじっただけの菓子をつっかえしてくる。苦笑しながらそれを受け取った葵はばくばくとむやみに食いついた。倦むこともなく蜜のかかった菓子を消費していく葵に葛が笑う。
「甘党だとは知らなかった」
「別に甘党ってほどじゃないけどな。嫌いじゃあないし、たまにしか食わない」
最後の一欠片を口に放り込んでから油でべとついた指先を舐める。丸められた油紙を放置されている屑籠へ投げ込む。乱暴に上着やズボンに指先をなすりつける仕草に葛がハンカチを渡す。
「染みになる」
「洗えれば早いんだけどな」
礼を言ってそれを受け取ると丹念に拭う。葛の性質を示すようにハンカチから焚き染めた香が香る。
 「葛」
葵がハンカチを受け取ろうとした葛の手首を掴むと引いた。手の平に収まってしまう細さだ。路地の裏へ入り込んでいくのを葛は不安げに目線を投げる。葛は慌てて吸いさしの煙草を捨てながら手持ち鞄を掴むので精一杯だ。通行人さえない路地の袋小路へ葵は葛を連れ込んだ。引き寄せた体を抱き、唇を重ねる。驚いたように見開かれていく黒曜石の艶が無垢だ。葛の背がドンと壁に当たる。噛みつくような口付けは唇を食みながらむさぼるように舌を絡め唾液を流し込む。葛が咳き込むのを眺めながら釦を外し、タイを緩める。
「…――、あ、おい! 何をッ…」
「欲情した。したいな?」
「馬鹿を、言うな…――」
葛の唇は紅でも指したかのように紅い。どさりと鞄が落ちる。
「ん、ん、ん…――ッや…め」
葵の舌がべろりと喉を舐めた。尖った喉仏を甘く噛むと首筋へ吸いつく。解かれたタイが地面に落ち、釦は着実に外されてシャツの襟は開いていく。
 「あおッあおい、いやだ! 止め…止めて、くれ」
震える葛の声に葵の眼差しが見上げてくる。黒曜石の双眸を潤ませて制止を懇願する葛はひどく劣情を煽った。普段が言っても聞かぬ頑固さであるからなおさら、懇願は琴線に触れる。葵はにかっと人好きのする笑みを浮かべた。葵は葛より馴染みやすい性質となりをしている。葛からふぅと力が抜ける。
「やだね」
「――なッ、あッ、ひ…!」
ベルトを緩めた下肢へ葵は手を滑り込ませた。びくびくと跳ねあがるように震える葛は動揺を隠そうと必死だ。葵は目の前で朱唇がわななくように震えるのを優越感で眺めた。首筋へ吸いつきながら釦を外した襟を肌蹴させていく。あらわになる胸部や腹部を撫でさすりながら焦らすように背骨のくぼみをたどった。
 「大丈夫だって、ちゃんと手短に済ませる」
「馬鹿ッ! そういう問題、では…ッあぁ、あ」
葛の声が震える。怜悧で乱れない葛の揺れは珍しくて葵の優越を煽る。整ったものほど崩壊は刹那的だ。葵が手加減を変えるだけで葛は体を揺らし喉を震わせる。がくりと膝が抜けて座り込むのを追って葵も屈んだ。
「葛」
「…馬鹿。馬鹿者…ッ」
葛の息が荒い。肩を揺らすようにして繰り返される呼吸は葛の常からはうかがい知れない。葵はその呼気を吸うように唇を寄せた。混じり合う呼気が互いの唇を撫でて喉奥へ消えていく。葛に逃げ場はなく壁際まで退いたほかに逃げ道はない。壁に吸いつくように背筋を伸ばして震える葛は不慣れな未通女の様に清楚だ。肌蹴た襟や外されたベルトの婀娜っぽさが少しも雰囲気を損なわない。刺激によって紅潮した皮膚が紅色に色を増す。息づく艶めかしさがそこに確かにあった。
「唇が紅いぜ。興奮してるんだろう、久しぶりだもんな」
腕を振りあげる気配に素早く反応した葵はその手首ごと押さえると壁へ押しつけた。軋む歯の音が聞こえそうなほどに葛の口元が悔しげに歪む。葵は葛に比べて世間ずれしているし、その分空気の変化にも敏く状況に対する態度も変わりやすい。
「離せッこの痴れ者が!」
古風な罵声に葵は知らずに笑んだ。葛は喚いているが人を呼ぶ気配はない。そもそも路地裏という界隈において行きずりに善行をつむ者など皆無に等しく、陥った窮地に対して外部からの助けはほぼ望めないのが常識だ。
「場所を考えろよ」
喚く口を口付けでふさぐ。怯えたようにびくりと震える葛の不慣れは奇妙に愛おしかった。
 「かずら」
黒絹の髪を梳くようにして撫でれば震え、耳朶をくすぐれば吐息が漏れる。この体を犯すことは簡単にできる。茫洋としたそれに囚われるように倦んだ眼差しを向ける葵の目の前で、葛の眦からほろほろと滴が滑った。白い頬を滑り落ちるそれは夜露の様に煌めいた。
「え」
「ばかッ! ばか、もの…!」
気丈な葛が涙するのは珍しいことだ。どんな目にあわされてもどんな役割を担わされても葛は不平不満一つ、涙一つこぼさない。それが仕事であるからと堪えてしまう葛の珍しい崩壊に葵の方が泡を食った。
 「葛?」
葛の特殊能力を駆使するならば葵から逃れることは可能だ。予定外の負荷であっても最終手段として葵から絶対的に逃れられないわけではない。葛が己の能力を忌んでいることは知っていた。必要になれば使うという彼の能書きは常について回った。葛の切れあがった眦からこぼれる滴は清廉だ。頬を滑るそれを拭ってやれば温く馴染む。体温が感じ取れない身なりだからと言って息をしていないわけでもない。それでも葛がこうして温い涙をこぼすことに驚きさえ覚えた。
「葛」
「どけッばかッ! この、ばかもの! どけと、言っているッ」
葵の体を押し返しながら葛の肩が震えて堪えようとする目の縁からとめどなく落涙した。葛のそんな動揺は珍しく、葵はぽかんと呆気にとられた。葛は容赦なく爪を立てて抵抗する。ぎちりと皮膚の裂ける感触と痛みに葵ははじかれたように拘束を解いた。それでも葛を追い詰めたままの体勢は変えない。葛は両手の自由を取り戻しこそしたがそれだけだ。怯んだように潤んだ眼差しが葵を見つめた。
 葵の口元が笑う。
「判った、無理強いはしない。ちゃんと許可を求める。それで、いいか」
葵は殊更にゆっくりと言葉を紡いだ。葛の中へ沁みていく音が目に見えるようだった。
「葛、お前が好きなんだ。だから抱きたい。…いいかな」
音が染み取ったところで葛がさぁッと顔色を変えた。首筋や耳まで真っ赤になって唇を震わせる。言葉にならない音が葛の唇から漏れた。うぅ、あぁ、と漏れる音は意味さえなさない。
「駄目か?」
「ばかっそんなこと訊くなッ」
厳しく言い咎められてたじろいだ葵の唇を葛が奪う。ふわりと柔らかい感触と瑞々しい皮膚の張りに自制が飛んだ。葛の指先は震えるように葵の肩へしがみついてくる。
 「じゃあ手加減しないけど」
葛の返答はなく、控えめに開かれた脚がその応えだ。
「ホント、色っぽいな」
うそぶくように告げてから葵は葛の唇へ噛みつき、ズボンを下着ごと引きずり下ろした。手を滑り込ませると葛の体が震える。その振動さえ心地よかった。貪るように葛の体を味わう葵に、葛は消極的な同意でもって応えた。
「まぁ、たまに食うから美味いものって、あるよな」
「黙れ」
びんと髪を引っ張られてその痛みに葵は苦笑した。


《了》

楽しかったんだ!(待て)            06/14/2010UP

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