少し哀しくて、辛い


   あなたが消える前にせめて私に

 茫洋とかすんでいた視界が灰白に染まった。反射的に寝返りを打とうと身じろいで、思いの外上等な敷布の感触に動きが止まる。同時に下腹部の重たい痛みは不本意ではあるが覚えがある。しばらく身動きを取らない。突発的な事態の際に動きが止まってしまうのは道路横断中に事故に遭う猫と反射が似ている。予感を感じてしまうから体が緊張して動きが鈍る。卜部は特に咄嗟の際に声を呑む性質であるから程度もひどい。剥き出しの皮膚に自分のものではないぬくもりが触れた。滑らかな感触のそれは生活環境と同時に階級差さえもあらわにする。もぞもぞと蠢く気配がしてから艶やかな髪の輝きが見えた。どこからか入り込んだわずかな明かりを吸収するように艶を帯びて存在を誇示する。そのぬくもりは卜部の顔を正確にとらえて双眸を据えてくる。
 紫水晶と称賛されそうな煌めきの双眸はくっきりと綺麗な二重で睫毛も長い。満遍なく部屋を撫でる光量は十分とは言えずともそこに何があるか程度の判別はつく。器量の良し悪しもつく程度には卜部も夜目が利く。軍属として多少不利な状況下であっても戦闘の開始はとどめられない。適応や呑みこみも十人前ではあると自認する。平等ではない立場での戦闘は卜部の体質まで変容させた。
「起きたのか? オレの方が先に起きていたかったのに」
体勢を変えるような間があってからぼふぼふと枕を整える音がした。
「る」
「黙れ」
良きにつけ悪しきにつけ先導者の位置にいる彼は常時仮面を挟んで世間と対した。卜部が個人的な呼び出しと申し出を受け、受諾した時に対価として彼はルルーシュという名と素顔を明かした。普段の傲岸さに少し寂寥をにじませて、出来れば藤堂にも明かさないでほしいと言ったから卜部は誰にも言っていない。情人に素顔を明かす大胆さの癖に個人名を呼ぶことや言葉遣いには執拗だった。卜部は時折寝床でだけ別人かもしれないと思う。謀られているかもしれないし、だがどこかでそれでも構わぬと思ってもいる。先方だって卜部の真偽を確かめるのは難しい。卜部はこの土地のものとして下層民である。保障は薄く、そのための情報把握もずさんな位置にいる。政府からの温情と拘束を受けにくい。活動が活動であるから犯罪者としての拘束や制限はあるし承知の上だが、一般として紛れこんだら探し出すのは骨が折れるだろう。格差の下層にいるとはそういうことだ。
 ルルーシュの目が煌めく。猫の目のように薄明かりの中であるのに瞳孔や虹彩の濃淡が判る。黒目が大きい。化粧をすれば映えるしせずとも美しい。定期的に整えられる髪や清潔な体からルルーシュの位置を推し量るのは可能だ。生活苦のない階級にいるだろう彼が何故テロリストと侮蔑される活動に身を置いているかは知らない。知ったところでどうしようもないしどうでもいい。諭すようなことは向いてない。きっかけさえあれば口をつぐんでしまう奴が何を言っても仕方ない。
「戻るぜ」
「もう少しいろったら」
体を起こそうとすると弱い拘束に阻まれる。抱擁のような幼子の駄々のような、はねつけられるのに無視できない性質の悪さがうかがえる。卜部は体を起こすのを諦めて仰臥した。この明るさのなかでは素早い身支度は難しいし、人の機嫌を損ねるのが卜部は嫌だ。卜部の裸身に重なるようにルルーシュの華奢な体が覆いかぶさる。育ちの良さのようにルルーシュの体躯は華奢だ。脆弱である卜部とは次元が違う。まかり間違っても、それは必ず優美という言葉の中におさまった。
「お前と一緒にいたいと言ってるんだよ、察しが悪いな」
ルルーシュの矛盾は行動の端々にうかがえた。仮面と情報の統制で他者を寄せ付けないくせに境界線を越した相手には我儘のように感情的だ。相手によって巧みに使い分ける言葉遣いも知略も、親しい相手であればわずかに稚気が見える。卜部はルルーシュと個人的に同衾するようになってからその違いに首を傾げた。愛人が出来てそこから綻びる権力者は過去何人も存在する。国の東西や南北を問わないそれをルルーシュが知らないとも思えないが、机上と実践の誤差であるかと卜部は問わなかった。卜部自身、使用する戦闘機の性能が事前の聞きかじりとまったく違っていた経験もある。膾炙の信憑性の問題だ。
 「うるせェ腰がいてェ」
「だったら横になっていろ。時間がきたら知らせてやる」
ルルーシュの舌が何度も唇を舐めた。卜部はピクリと片眉だけつり上げたがおとなしく四肢の力を抜いた。安堵したようにルルーシュの纏う空気が弛む。だが弛んでもルルーシュは無防備に体を預けたりしない。寝床でもそうで、好き放題に扱いながら相手の侵略や優位は赦さない。表層的な同調も拒絶した。ルルーシュは憐憫や同情を侮蔑であると扱う。神経的なほどに微細なその網目は根深い。

藤堂とは、違う。

藤堂は卜部の直接的な上官と言っていい位置にいる男だ。作戦の立案や実行に多大な尽力と同時に影響も持つ。軍属崩れの反政府活動で紆余曲折を経て卜部達部下とともにルルーシュの元へついた。藤堂も憐憫や同情を受け付けなかったが、ルルーシュと違うのは積極的に厭いはしなかった。ルルーシュの作戦は緻密で機械的で、そのくせ感情的だ。誤差の針は藤堂の抱えるそれより大きく振れているように卜部は思う。
 「藤堂とは、違うな」
同じ人物を思い浮かべていたから単純に驚いた。仮面をかぶったルルーシュは戦力と影響は考慮しても人格には興味がないと言いたげに卜部は感じていたから意外でもある。ヒトのこと考えるんだ、あんたでも。不用意にほとばしりそうになるのをすんでのところで呑みこんだ。ルルーシュはそれさえ承知とでも言いたげに卜部を見下ろす。
「お前と藤堂は違うな。戦力じゃないぞ。戦力としてはお前と藤堂は比べることさえ愚かだ」
判っていても言葉にされれば口元が引き攣る。見えていないと判っていても卜部はルルーシュのまだ幼いはにかみを残すような体や顔を睨んだ。
「藤堂は、助け、がなんであるかをちゃんと知っている」
言いたいことが判らない。沈黙した卜部をどう取ったのか、ルルーシュの口は滑らかに言葉や音を綴った。元来、自身が広告塔となる立場もあってかどこか演説ぶっている。
「藤堂はそれがなんであるかを知っている。だから享受も拒否も選択できるし、当人にも区別がついているだろう。物資的なものに限らない。心の支えとかそういう面からのものでさえもそうだ。何が救いで、何が助けで、それがどういう性質であるか、自分にとってどうであるか、藤堂は冷静で、だが時々感情的だ。ふふ、心の支えなんて、強固にするぶん要になるから攻め立てられやすい。だが藤堂はそれさえも知って抱えているな。強いと弱くないはイコールではない。藤堂はそれをよく知っている」
ルルーシュの言葉は遠回しに卜部を責めた。悟ってほしいと相手が思う時に卜部はいつもしくじった。卜部自身、機微に敏いという自覚がないし、そう振る舞うから至らなさばかり責められた。直接お前が悪いと言われる方が楽である。失態の原因が特定できる。俺の所為かと、卜部自身も納得する。ルルーシュのように遠回しなのは骨が折れるうえに、至ったそこが優しくもないから自ら打たれに行くのと似ている。傷めつけられると判っているのに、少し隠されただけで好奇心で深追いする。何度も痛い目に遭っている。
 ルルーシュの手が卜部の頬に触れた。表情を変えた自覚がないからその接触は唐突だ。
「遠回しにお前を責めている。それは判っているようだな」
なんだと卜部は肩から力を抜く。殴打される際にはある程度の加減がいる。強すぎても弱すぎても被害は拡大するばかりだ。不意に射した明かりがサーチライトのように部屋を舐めてルルーシュの紅い唇が鮮烈に灼きついた。寝台の上で男二人が向かい合うなんて洒落にならない。黒絹のように細い髪が明かりに透けた。表情の動きのない卜部にルルーシュはむっと幼い憤りを見せた。盤上遊戯で思う方向へ行かなかったときの失望と憤りのそれだ。
「いいか、納得できないときはそう言え。何も言わずにやり過ごすなら呑みこめ。代案がないなら何も言うな。意志表示はしろ」
卜部の眼が眇められた。ルルーシュは子供じみたことを言っている。一つ一つは納得できるが統合に欠ける。ルルーシュも判っているのか、とにかく痛い時は痛いと言うんだ、と言い聞かせるように呟いている。
「お前も藤堂もそういうところは…きらいだ。我慢を美徳だとは思わない」

好きなやつが痛みに耐えて震えるのを、オレは耐えられない

明確な意思表示に卜部の方が面くらう。目を瞬かせて呆気にとられるのをルルーシュが子供の不出来を責めるように甘く睨む。
「お前の体はすごく正直なのにお前はちっとも正直じゃない。きついことを言われていると思うなら、涙を見せるくらいの可愛げがあってもいいのに」
大きな紫水晶は卜部の脊椎さえ見抜く。
「お前は悦楽に泣いても衝撃に泣かない。痛みに泣かない。涙を見せたくない気概は買うが、その…オレは、頼りない、のか? 藤堂、が。藤堂が、卜部はあまり泣かないよと言っていたから! あまりということはつまり藤堂の前では少しでもちょっとでも涙を見せたことがあるのかって! オレは見たことない! だからすこし」

藤堂に妬心がわいた。

薄闇で判るほどルルーシュは頬を赤らめて唇を尖らせた。オレは守りたい気持ちもあるが頼られたい気持ちもある! 男だし!
 「お前は助けを頼ることはしない、から! 戦場で窮地に陥ってもお前はもしかしたら救援さえ要請せずに散るかと思ったら、オレは怖くて辛くて、そんなのは嫌だ!」
ほとばしる感情がルルーシュの幼さのようだ。まだ恋情や情動に突き動かされる年ごろ。自分にもあったはずのそれの希薄さに卜部は少し驚いた。なんだか反抗期を迎えない子供みたいだ。虚ろに抜けてそのまま年ばかり押し上げられて、未熟なまま、で。停滞と未熟が深く絡みあって緩やかに変化を嫌う。死と再生さえ拒む停滞はただ虚ろなだけだ。変化を拒むことは即ち成長や成熟さえ拒んだ。
「だから、さ。言いがかりで責められているんだから怒れよ。嫌えよ。なんでそんな何でもないような顔するんだ。辛いとか哀しいとかないのか。憤りでもいい。そういう変化はないのか? オレはそんなに、どうでもいいのか」
はぁ、と卜部の体から力が抜けていく。卜部の意志とは連動しない方向へ話が向くのは常態だ。一方的に責められて殴られて、それでも卜部はどうしたら良いか判らない。助けを求めないと言ったルルーシュは言い当てていて妙だ。多少変化の幅を含んでも卜部を叱責する相手の言い分は同じだ。卜部に情動がないと言う。卜部には求めるべき助けがなんであるかどうするべきかさえ判らない。どこか欠けているから、厭われるのも疎まれるのも仕方ないと思う。

「お前の泣く顔が見たいオレを嫌えよ! そんな奴は嫌だって嫌いだって、そう言えばいいんだよ!」

「……別に俺は、あんたァ嫌いじゃあねェし」
思想として受け入れる受け入れないの区別はある。だが好悪の情はそれと連動しない。そういう文化だそういう考えだですべて説明されてしまって卜部の曖昧さが左右する余裕はない。
 ルルーシュが、その刹那に震えた。戦慄のような歓喜のような、それでいてただ体の反応のような慄然としたそれの振動を卜部は体に這わせられた箇所から知った。
「…――オレを、嫌え。お前の瑕疵につけ込んでそれでもお前がオレを嫌わないことを喜ぶオレを疎んじろ。オレは、最低だ――」
う、わぁ、あとルルーシュが慟哭した。それは泣き声や落涙に留まらない。体中が相反する情動に灼かれている。嬉しい悲しい嫌だ辛い。あらゆる衝動がルルーシュの体を震わせている。それでも卜部はただ、ルルーシュの様を眺めているだけだ。それこそ、最低だ。
 ルルーシュはしばらくしてから己を取り戻した。落涙を堪え泣き声を殺し、面映ゆく微笑みながら卜部を切り裂いた。
「お前は咎めないが抱き締めもしないんだな」
優しいのに、冷淡だ。
卜部にはどうしようもない。それが俺だ。変えようもない。変えるべき差異が卜部には見つけられない。卜部は当事者で、だから冷静に客観視できなくて、だから卜部は己の原始的などこを変えたらよいか判らない。涙することはない。涙する資格もない。無為に虚ろなだけだ。表情さえも変えない卜部にルルーシュは諦観のように達観のようにそれでもどこかで一縷の望みをつなぐように必死に、卜部を見つめた。見つめてくる紫苑の双眸の視線が卜部に刺さる。痛い。瞳孔の収縮が見える。絹のように滑らかで細い髪の幕の奥から射すほどに強くて痛い眼差し。ないものを求める性が人にあるのを知っている。求めるのはないからだ。ルルーシュの強さは卜部にはない。だからひどく強くて眩しくて、うらやましい。なんて――浅ましい。
 そんな下賤な感情しかわかない己に卜部は絶望して悲観して、それ以上に何も出来ない。ルルーシュは黙って唇を重ねた。融けるように触れる体温の融解と拒絶を卜部はあいまった心持のまま受けた。卜部の想いはきっと理解されない。理解されたらそれだけで卜部は耐えられないほどに。だからこれでいい。ルルーシュの潤んだ双眸は卜部の目前で震えた。
「好きだけじゃ説明できない。でもオレは、お前が好きだよ――」
藤堂ではない違う男に、死んでもいいかなと思ったのは初めてだった。


《了》

ちょっともう誤字脱字チェックしてないし!(滝汗)               2011年3月27日UP

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