愛じゃない。恋じゃない。
もっともっと、醜悪な。
代償行為
卜部は暗緑色に噎せる灌木を茫洋と眺めていた。行為の後始末を終えた藤堂が水で濯ぐ音が聞こえていた。藤堂の私邸に呼ばれる際の目的は明らかだ。互いにそれ以上を求めたこともない。卜部は求められるままに体を拓く。体裁や関係の円満さを求めるなら堪えは必要だ。藤堂もわきまえているから無理は言わない。関係は卜部が藤堂のもとへ来てから時を同じくして始まった。軍属の上下関係の誇示は時折恋愛を省いた体の交渉にすり変わる。卜部は黙って脱がされた衣服を身につけた。釦を留める指先が震えた。恋愛という感情の落ち着き先を持たない関係は思わぬ深部へ傷をつける。問いを堪えて口元を引き結ぶ卜部に藤堂は、強いることと強いられることは同じなのだろうか、と呟いた。その問いの発生理由を卜部は知ろうとは思わない。藤堂の方でも話しはしなかった。
喬木がざわりと枝葉を揺らす。灌木は重たげに瞬くように暗い木陰に震える。部屋の明かりをともしておらず軒燈だけが鮮烈に光を放つ。庭木がそれなりに目隠しを兼ねている所為か、藤堂も卜部も硝子戸や唐紙を閉めたりはしなかった。夜闇は室内にまで及び、蚊遣りの燃える橙だけが虚ろに揺れた。行為の後の気怠さを帯びる体に緑陰は鬱陶しいだけだ。この土地に特有の気候は夏でも驚くほど蒸した。遠雷は頻繁に響くが気温を下げるような降雨はない。お湿り程度に地面を濡らす雨は却って湿度を上げる。卜部は縁側へ這っていくと沓脱ぎに足を放り出して息をついた。昼間の気温を含んだ石はまだ温い。履き物がそろえてあるのがこの家の主たる藤堂の気質のようだ。些細なことにも手ぬかりなく用意を怠らない。足裏から伝う熱をぼんやり感じる。夜半になってもまだ暑く、少しでも体を動かせば腋下や膕へ汗がにじんだ。卜部は習慣的に額へ張り付いていた前髪をかきあげた。奥の座敷の床の間には藤堂の挿した花がある。出来の良し悪しなど判らない。ただそのわきまえに沿うように収まっていることに藤堂の慣れを感じる。
卜部は立ち上がるとズボンを調えた。ベルトは締めない。留め具だけ留める。卜部の体は痩躯であるから衣服の寸法は既製服ではことごとく合わない。腰回りが緩く尖った腰骨が覗くのはしょっちゅうだ。卜部の目線は何気なく投げられてからはたと止まる。ざんと揺れる灌木の揺れに確信しながら卜部は縁側から飛び降りると地面を蹴った。裸足の足は熱気に乾いた地面の表層を蹴る。重厚な構えの潜り戸を抜けて走る。卜部は長身であるから四肢も長く、歩幅もそれなりにある。向けられた背中は逃げるのを止めて立ち止まる。卜部も距離を置いて止まる。たいした距離を駆けてもいないのに卜部の肩は揺れた。行為で熱量を過度に消費している。
くるりと振り向く顔は童顔で愛くるしくさえある。暗緑色の前髪はきちんとそろい、頬で揺れる。うなじをあらわにする短い髪は彼の性別を無言で示す。丸い眼鏡の奥のパチリと大きな双眸は卜部に明確な敵意を映した。
「朝比奈」
目隠しを兼ねる灌木の生け垣は同時に潜伏を赦した。生い茂る枝葉は内側を隠すだけにとどまらず、外部の景色さえ遮断した。反射的に追いかけた卜部だが朝比奈を扱いかねた。朝比奈は藤堂を慕うことを隠したりしない。その感情が恋慕と肉欲を含むそれであることさえ隠さない。朝比奈の位置から見れば卜部は疎ましい位置にいる。
「何その格好。だらしないね」
卜部はズボンこそ身につけているがシャツは袖を通しただけで釦さえ留めていない。卜部の体は最低限の後始末をしただけであるから片鱗があるのかもしれないと卜部の目線は己が体を移ろった。卜部は不満を示すように口元を引き結ぶ。朝比奈も気づいてふんと紅い唇を歪めて笑う。相手の機微に気付いた程度で我を曲げるほど朝比奈は人が好くない。
「おまえな」
「怒らないの。気付いてるんでしょ。見てたよ」
卜部の言葉が止まる。内心の動揺を卜部は驚くほど表に出さない。それは藤堂にも指摘されたのだが卜部は良し悪しや程度にかかわらず内情を悟らせたりはしない。むろん相手も選ばず、対応には一貫性があると卜部は自認している。朝比奈はそろえた前髪を散らすようにそよがせて片頬をゆがませる。
「藤堂さんとあんたが寝てるとこ見たよ。あの生け垣、藤堂さんは知らないけど透いてるところがあるんだ。庭の手入れを手伝ってて気づいたんだ、ずっと黙ってた。藤堂さんを煩わせたくないから黙って眺めるだけで済ませるときに使ってた。まさかあんなもの見れるなんてね」
朝比奈は殊更に気を逆撫でする物言いをする。相手に与える印象が悪いのを知っていてそういう素振りをする。朝比奈は藤堂以外の者からの好印象など求めなかった。極端に視野を狭める慕情は朝比奈の稚気を窺わせる。
つかつかと歩み寄った朝比奈の繊手が卜部の胸に触れた。男性であることと所属を考え合わせれば脆弱に白い手をしている。その手が肌蹴られたままの襟を掴んだ。藤堂の私邸は近所との間隔も広く人通りは少ない。時間帯も影響して人通りを理由に朝比奈をとどめるのは難しそうだとだけ思った。
「ねぇあんたさぁ」
朝比奈の目が眼鏡の奥で煌めいた。潤んだようなそれの瞬きは夜空を映し、卜部は雲の漂う夜空に気付いた。遠雷が響く。ここのところは遠雷が響くだけで冷えるような雨はない。
「藤堂さんをオレに頂戴」
朝比奈は煙草でもねだるように口にする。卜部の眉がピクリと揺れたがそれきりだ。卜部としては藤堂に拘泥する理由はない。だがそれを朝比奈に告げる筋合いや必要も感じなかった。
朝比奈が掴みあげた襟を握り潰しながらにっこりと幼い笑顔を向ける。与える印象と通る我儘を心得ている小狡さが見える。朝比奈は己の領分をきちんと知っていて遠慮もしない。利用できることは最大に活用する。こと、藤堂に関して朝比奈が遠慮するようないわれもなく、物怖じしない朝比奈がするわけもない。
「オレに藤堂さんを頂戴。あんたなんかに藤堂さんは勿体ないよ。あんた、なんかに」
卜部は黙って朝比奈の手を払う。叩くように落とされて不満げに唇を尖らせる。紅く熟れたそれは朝比奈の性別さえ彷徨わせる。拒否の意を感じた朝比奈はすぐさま激昂した。感情の昂りがすぐさま発露するのは朝比奈の性質だ。朝比奈は己の思考や感情を表に出すことに躊躇したりしない。
「欲しくない癖に! 欲しくないならくれたっていいじゃない! 藤堂さんまで巻き込んでさぁ、あんたのその曖昧な感情に藤堂さんを巻きこまないで! 藤堂さんを大好きなのは、オレなんだ!」
「だからなンだよ」
卜部は鬱陶しそうに朝比奈の手を払う。乱暴に払い落せば白い皮膚が赤らんだ。
「そういうこたァ本人に言ってやれ。俺ァ伝言板じゃねェんだよ、てめぇの慕情くらいテメェが伝えな」
朝比奈の目が刹那、見開かれてからみるみる涙に濡れていく。
「藤堂さんはあんたなんか選んでない。たまたまだ」
「俺ァあの人に選んでくれって頭下げた覚えはねェ。知るか、ンなこと」
「だったら頂戴。藤堂さんに、オレと寝てくれって、あんた言えるの」
卜部の意識を朝比奈の言葉が滑る。藤堂と卜部の関係に恋慕はない。朝比奈はそのあたりをどうも誤解している。肌を重ねればそれがすなわち情の交歓であると早合点するのは未熟なものにありがちだ。肉体と感情の連動は驚くほど脆弱で、肉体の対応能力や範囲は驚くほど広い。好意なく肉欲だけで行為が成立することを朝比奈は知らない。
「ねぇお願い。藤堂さんをオレに頂戴。オレには藤堂さんは必要なんだよ。藤堂さんが欲しくて欲しくて、どうしようもないんだ動けない」
卜部は返事をしなかった。言葉もないし感情的に返答の必要性を感じなかった。
「ずるいよ」
朝比奈が変化しない卜部の態度に明確な苛立ちをにじませた。卜部は否とも応とも応えない。朝比奈が平静に戻るのを待つつもりであることは諍いを嫌うことなかれ主義に映ったはずだ。
「藤堂さんはオレのだったのに! あんたが来る前にはオレのだったんだ! 一緒にご飯食べたり稽古したり、あんたなんかが知らないような小さいときからオレは藤堂さんのものだったし藤堂さんはオレのだった! 泥棒猫ってあんたのことだよ。あんたがいなかったらよかったんだ。そうしたら藤堂さんはずっと、ずっとオレのものだった!」
卜部は拒絶するように目蓋を閉じた。ヒュウと空を切る音に気付いた刹那、手加減の一切ない平手が卜部の頬を打ち据えた。喧嘩に慣れていないのか朝比奈は拳ではなく平手で卜部を一撃した。そのあたりの詰めの甘さは藤堂の庇護にいたことを裏付ける。藤堂は諍いを嫌うから喧嘩の仕方やコツを教えるはずもない。
「返してよ。返して。藤堂さんをオレに返して! 藤堂さんは、藤堂さんはオレのだった、んだ!」
卜部はこの状況をどうするかを考えあぐねた。朝比奈の追跡は完全に間違いだ。諍いへ自ら飛び込んだようなものである。知らぬふりをすればよかったのだ。この諍いを藤堂に持ち越すのは気が重い。卜部は藤堂に借りを作る気は毛頭ない。
「だからな」
卜部は膝を抱えて丸まって泣きじゃくる朝比奈のもとへ屈んだ。朝比奈の白い皮膚は興奮で紅潮している。
「俺とあの人の間にそんな情はねェんだよ」
朝比奈の目がきょろりと動く。過剰な潤みを含んだ目が紅い。鼻をぐずぐず言わせている。
「そんな…――優しいみてェな甘いようなそんないいもんはねェんだよ。ただ相性がいいから寝るだけだ。俺ァ別にあの人のこたァ愛しちゃいねェしあの人だってそうだろうよ」
朝比奈の童顔がみるみる怒りに歪む。卜部が身構える前に朝比奈は明確な敵意を帯びた一撃を卜部に食わせた。二度も殴打された頬がしびれたように痛む。切れた口の端からにじむ血の味が苦い。
「…なんだよ。それ、それ同情?!」
卜部は立ち上がるとシャツの釦を留めた。頬が腫れて領域を失っていく。感覚は果てしなく膨張し、外界との境界を失っていく。
「あんたのそういう何でも判ったような顔するとこは大ッ嫌いだよ! 敵に手心を加えてもらうなんて、最悪だ」
朝比奈の目が怒りと激情に潤む。
「――だから。だから判らないんだよッ藤堂さんの事!」
踵を返す朝比奈は素早く卜部が呼びとめるだけの間を与えなかった。茫然と見送る卜部の視線の先で朝比奈の背は小さくなっていく。
「可哀想なことをする」
あっさりと悪びれずに言ってのけるのは藤堂だ。可哀想だと言いながら藤堂はその事態を改善させる気もなく卜部の唇を指でたどる。振り払いながら卜部は口の中を舐めた。びりっと沁みる感触に裂傷を知る。吐いた唾が鮮血に泡立った。
「年少のものには優しくするものだ」
「あんたの優しさも残酷だけどな。他に言いようが見つからなかったんで」
藤堂の細い顎が卜部の肩へ乗せられる。同時に這った指先が留めた釦を外す。皮膚の上を這う指先の感触に卜部が身震いすると笑ったような吐息が耳朶をくすぐる。耳をくすぐるように舐ってから卜部の腫れた頬を舐める。膨張を含む感覚の麻痺で対応が遅れた。痛みが後から来る。藤堂の微笑が漏れる。
藤堂の指先はそこが屋外であることさえ考えない。すぐさま寝床へ倒れ込めると信じて疑わない横柄さだ。卜部の堪えや朝比奈の感情を含めない。藤堂は元来鈍感ではないから朝比奈の感情に気付いていてもおかしくない。その上でのこの行動では卜部もかばう気は起きない。
「ああいう厄介は事前にちゃんとしてくださいよ。俺は巻き込まれたかァねェんですよ」
「それは、すまない。お前ならうまくいなすかと期待した」
藤堂は悪びれず謝罪もおざなりだ。駆け引きが必要な位置に藤堂がいたことは聞き及んでいるからその延長のように藤堂は言葉で卜部や朝比奈を翻弄する。罪悪感も感じさせず遠慮や気遣いもない。
「…止めてください。こんなとこで俺は脚ィ開く気はねェ」
藤堂の指先が下腹部に及んで卜部はそれを払い落す。藤堂はクックッと喉を震わせて笑った。断続的に途切れる吐息が卜部の耳朶をくすぐる。
「案外、潔癖だ」
「…べつに」
卜部の茶水晶は虚ろに藤堂を見る。鳶色の髪や精悍さを窺わせる顔立ち。男性としての価値は高く、戦闘力も高度だ。それが何故己のようなものを相手に定めたかは判らないし判る気もない。
「俺ァ面倒事は嫌いなんですよ。スキとかキライとか、ガキじゃねェんだから」
「それは多数を敵に回す意見だな。好悪の情が行為に結び付くのは当たり前として通っている」
「俺はそれがうざいって言っているんですよ」
「稀有だな。少数派だが無視はできない。お前の価値みたいだ」
藤堂の腕が卜部の腰を抱く。
「意志や抱負がどうでも、発散は必要なんですよ」
卜部は背骨をしならせて振り向きざまに無防備な藤堂に唇を寄せた。背丈は卜部の方がある。藤堂の唇が笑んだ。
「そういうお前は好きだ。愛など、要らない」
卜部は口元だけで笑んだ。
「俺もあんたは嫌いじゃねェですよ」
「最低野郎」
《了》