理想と感情
赦せないから赦してしまうことがある
藤堂はまったく同じ場所に傷みのある壁を見て初めて己が同じ場所を周回しているのだと気づいた。溜息をついて肩を落とす。思考と同じ堂々巡りを繰り返すだけの無為なそれは目的などなく行うこと自体が目的だ。貧乏ゆすりと同じで落ち着きどころのない手脚を運動させているだけだ。藤堂は方向や曲がる角の左右を変えて歩いた。角を曲がったところで見慣れた後姿が揺れた。日本人とは思えない長身と縹色の艶を帯びる髪。痩躯に見合う長さを持っている四肢を繰るのに要る間は独特で微妙に呼吸が異なる。藤堂は卜部の背中に声をかけようと唇を開いたが渇いた喉からは唸り声さえ漏れてはこない。干渉を嫌う藤堂はその代わり口出しもしない。藤堂と卜部が寝床を共にしてからそれなりの年月が経っているが、藤堂はいまだに卜部を把握できずにいた。卜部も干渉を嫌うし内部事情を吹聴するような性質でもない。藤堂と卜部は明かさない部分を持ったままこの関係を続けている。それに不自由を感じたことはないし、誰しも口に出来ない過去があるのを知っている。なまじ知っていると関係の継続や中止に支障をきたす。はからずも藤堂と卜部の双方ともが関係の切れることをどこかで前提として承知している。未来永劫共に暮らすという夢を見続けるには二人とも経験がありすぎた。
声をかけられなかった不手際を埋め合わせるように藤堂は早足になった。知己であり見かけた以上挨拶はするべきであるという義務感を理由に藤堂は卜部を追う。細い通路の続く場所へ出ると卜部が不意に足を止めた。だが藤堂に気付いたわけではないらしく振り向かない。藤堂の足も自然と重くなる。通路からふわりと裾をなびかせて現れたのはゼロだ。目鼻のない仮面は能面以上に無表情で性質どころか感情さえ悟らせはしない。ゼロが手を添えて仮面を外す。秀麗といっていい少年の美貌が藤堂にも見えた。形の好い柳眉に煌めく双眸。黒絹の細い髪は濡れ羽色の艶を持つ。通路の奥へ潜む闇よりよほど蠱惑的に黒い。肌は白く吹出物や傷さえもない。手入れを怠らず、それでいて手間を感じさせない美貌だ。まだ青い果実のような未熟さは将来への期待感を持たせる。
「巧雪」
唇が卜部の名を紡ぐ。藤堂はわき上がる感情をもてあました。関係性の深浅にかかわらず名前というのは必要であり、そこに他意など存在しない。それでもゼロが卜部の下の名を紡ぎ、卜部がそれを拒否していないという状況は藤堂にある程度の衝撃をもたらした。少年の顔に覚えた記憶の片鱗が灼かれた。藤堂の体内を駆け巡ったのはゼロに対する見覚えではなく卜部との親しさに対するやっかみだ。二人の間で言葉の行き交いはなく、それだけに関係の深さを窺わせた。単純に関係性の長さだけでいえば藤堂の方が付き合いは長いだろう。だが関係の深さは時にその長ささえ無視することがある。
卜部の方でも特に拒まない。卜部は口数が少ないが何も感じないわけではない。好き嫌いや意見はきちんというし折れることも知っている。ゼロが不意に踵を上げた。二人の顔が近づいてその行為の分の間が流れた。藤堂の位置からでは見えないが卜部の首にまとわりつくゼロの細腕は二人が何をしているかを明確にする。たっぷりの間をおいてから離れたゼロが朱唇を舐める。その舌先が篝火のように紅い。藤堂の足元が揺らいだ。たたらを踏んだ足音に二人が同時に振り向いた。藤堂は反射的に俯いてから後悔した。見ることが辛いことから逸らした目線を戻すのはその何倍も労力を要する。頬が火照って耳が熱い。藤堂だってそれなりに経験を積んでいるからキス一つ何でもない。問題はそれを行ったのが卜部と美貌の少年であるという点だった。不満や要望があればいつでも切れようという心構えの浅薄さを思い知る。藤堂の意識は表層以上に卜部に嵌まっていた。これで卜部の方から関係を終わらせたいと言われたらと思うだけで指先が震えた。激昂するのか沈黙するのかさえ想像がつかない。目の奥がちかちかと紅く燃える。
ゼロも卜部も何も言わない。沈黙に耐えかねた藤堂がついに視線を戻した。ゼロは賢しい眼差しを卜部と藤堂の双方へ交互に向けた。その色合いが紫であることに藤堂は今さら気付いた。紅い唇は不満と言い分を控えながら何とか堪えている。年若さの勢い任せな短慮に走らないあたりはよく出来た子だと思う。彼がゼロであることにある意味で安堵する。それなりの力を有し始めている団体のトップが感情任せに走る性質では困る。
「…う、らべ」
藤堂は恐る恐るその名を呼んだ。卜部は何の変化もきたしていない。抱擁を閨の相手に見られても動じないし、言い訳を並べ立てたりもしない。潔いのか面倒くさがりなのか藤堂は判断に迷った。卜部はもともと感情をあらわにしない性質だ。
「卜部、ちょうどいいから訊くぞ。お前は藤堂とオレのどちらをとるんだ」
ゼロの発した言葉に藤堂が仰天した。二人の抱擁は手慣れていて不自然さもなかった。だから二人の関係は長いのだろうと踏んでいたがゼロの言葉から見えるのは二人の関係は必ずしも双方向ではないということだ。
驚いて言葉もない藤堂を見ていた卜部が倦んだような眼差しをゼロに投げた。
「…なんでンなこと訊くんだよ」
卜部の表情は明らかに億劫だと言いたげだ。それでもゼロは食い下がる。
「お前が好きだからに決まってるだろう。オレは浮気は赦せない性質なんだよ」
厄介事を抱えたと言わんばかりに卜部が肩を落とす。ゼロの視線が熱心ですがるようだ。これほど素直に感情を示すすべを持っていたなら生きることは少し楽だったかもしれないと藤堂は思いをはせた。藤堂の足がのろのろ二人のもとへ向かう。大声で話すには憚られる内容だ。自然とゼロも声をひそめた。
「巧雪」
ゼロのせかすような声は根拠のない自信にあふれている。藤堂に引導を渡したいと思っているのが垣間見えた。卜部と藤堂は肉体関係を除いてもなお軍属という深い上下関係を帯びている。軍属の上下関係は絶対的でありそれは骨の髄にまで叩きこまれる。覆すのは難しく手間を必要とした。
卜部の茶水晶が二人を見る。がしゃがしゃと頭をかいて息をつき、重心をずらす。長さのある手脚は動作が映える。藤堂はこの状況でさえ卜部に魅了されている己が情けなかった。
「どうでもいい」
卜部の唇はあっさりそう言った。藤堂の灰蒼が見開かれ、ゼロの朱唇がわなないた。ゼロはすぐさま応戦した。
「なんだと?! お前はどういうつもりでオレと、お前は藤堂の方が」
しがみついてくる細い指先を卜部は静かな動作で払った。乱暴に払い落したりはせずにしがみつく指先を解いていく。その仕草は無関心であるが故に優しい。
「巧雪」
ゼロの声が震えた。卜部は言い訳さえしない。拒みも求めもしない。
「ワリィな。俺ァ誰に脚開こうが気にしねェンだ」
ゼロの腕がしなって卜部に平手打ちを食わせた。潤んだ双眸で卜部を睨みつける。卜部は口の端をつり上げて笑った。嘲りにも似たその対象がなんであるかを藤堂は判じかねた。卜部が哂っているのはゼロなのか卜部自身なのかさえ判らない。踵を返して駆け去っていくゼロの背を追うように藤堂は歩を進めた。その歩みは卜部のそばで止まる。頬を紅く腫らせた卜部は満足げにゼロの駆け去った方向を見ていた。
藤堂の目線が遠慮がちに卜部の体を移ろう。藤堂の行動指針から見れば卜部のこの態度は受け入れ難いものであるはずなのに、未練がましく藤堂はここにいる。ゼロのようにぶちまけることさえ選べずに諾々とした流れに身を任せている。卜部の感情がどうあっても藤堂は卜部を好いているのだということを思い知らされた。好いているから好いてくれるというのは幻想だ。目の前で展開されるそれに目が覚める思いをした。
「あいつァまだ先が長いからなァ」
卜部のこぼした言葉に卜部の真意を見たような気がした。この非合法団体に属しているにしてはゼロは年少すぎる。つまり彼には長いこれからという将来があり、卜部は己をその通過点であると定義した。通過点に拘泥していては先がない。
「…優しいのだな」
虚ろに紡いだ藤堂の言葉に卜部は面白がるような目を向けた。
「余裕じゃねぇかよ。俺ァあんたを選んだとは言ってねェぜ」
揶揄するような卜部の口調がその心情をあらわにする。卜部は案外狡猾な性質で真意をおいそれとは見せない。それでいて条件を知っているものにだけは判るように示す。手間も面倒も要るがそう言った遠回りは卜部が赦したものだけなのだという優越感がある。藤堂は仕返しのように微笑んで見せる。卜部は不満げに鼻を鳴らした。殴られて腫れた頬を指先が引っ掻く。
「素直じゃないな」
目につかない場所に贅をこらすのは日本人の粋だ。ゼロの身なりから彼の年齢を推し量るに十代であるだろうと思われる。卜部の屈折を理解するには多少未熟といえるだろう。
「へェ、買いかぶり…」
卜部の口調から揶揄は抜けない。あえてそうしているのだと思わせるだけの強引さが見える。卜部は藤堂にさえ心情を吐露しない。卜部の在りようはあくまでも負担を与えない。知ることの重みは知らずにのしかかり拘束してくる。知らずにいた方が良かったことなどそこらへんに転がっているし、藤堂自身実感したこともある。知るということは直接間接を問わずにある程度の責任を帯びる。
卜部の茶水晶は意味ありげに揺らいだ。つり上がる口の端は揶揄と同時に親しみさえ感じられる。藤堂はある程度の無礼を働いても卜部との関係は破綻しないと思っている。諍いや揶揄で破綻する関係などその程度だということだ。修復の余地があることが肝心だ。失敗さえ呑みこむ関係を築くのは案外難しい。
「あんたはどうだよ? 俺のこと殴って縁を切る? ほかの男に脚開いたりするやつァ嫌いだってか」
「褒められたことではないが私の知ったことではないかな」
謳うような卜部に藤堂もうそぶいた。互いに慕情が綺麗なだけではないと知っている。無様な感情は何度も肉体に引きずられるし倫理感さえ揺らぐ。体にたぎる熱はその質量以上に体に侵入し影響する。
「大人、ってか」
笑いながら卜部の指先が藤堂の鳶色の髪を梳くように引っ張った。身長の関係上わずかに仰け反る藤堂の唇に卜部は唇を乗せた。触れ合うだけの口付けに体温が行き交う。
「…無様だな。お前を抱きたい」
藤堂の唇が言葉を紡ぐ。卜部は喉を震わせて哂った。普段の藤堂は潔癖であろうとする故になりふり構わない。妥協を知らない藤堂はどこまでも愚直に走り抜ける。卜部の指先が自ら襟を緩める。
「そうだな、こんなバカみてェなことするあんたになら抱かれたっていい」
藤堂の手が卜部の頤をとらえ、噛みつくように口づける。卜部は痩躯である見た目通りに踏ん張りが利かない。すぐさま勢いは藤堂の側に傾いた。たたらを踏みながらも卜部は暗がりを探す。藤堂は卜部の体ごと暗がりへ飛び込むと乱暴に襟を開いた。人目を避けるようにゼロと逢瀬を重ねたのが幸いしている。袋小路で抱擁をしても誰の目にもとまらず知られることさえもない。
「…好きだと言うんだろうな。お前がなんであってもどんなであっても私は」
「くっだらねェ。気にするだけ無駄だ」
言い募る藤堂の唇を卜部が口付けてさえぎる。
人の思慕は綺麗事では済まない。相手の信頼を得るためになりふり構わなかったり、これまでの基準を覆すような事態にさえ柔軟に対応する。その訪れはたいてい唐突で予感さえなく振り回されるだけだ。それでもいいのだという想いを藤堂は慕情と定義した。好きだという感情の範囲は広く、己の価値基準など微々たるものだ。想い人が出来れば嗜好が変わるということにさえ頷ける。相手に合わせてさえ欲する心が見える。
つまり、あなたが大好きだって、事
「巧雪」
卜部は黙って笑んだまま藤堂の首に腕を絡めた。脚を開く間へ藤堂は体をねじ込む。
「後悔は?」
「するくらいならしねェよ」
卜部がはじかれたように笑いだす。震える喉に藤堂の指先が触れ、哂い声をさえぎろうと唇を乗せた。
一方通行でも構わない。私はあなたが好きで。
だからこそ出来ることがあるのです。
《了》