ただ無為に愚直に
私は君を思って
それを免罪符に
私には君が必要なんだ
冬の夜空は澄んでいる。瞬く星の息遣いさえ聞こえてきそうで朝比奈は目を背けた。よく磨かれた板張りの濡れ縁に腰を下ろしたまま朝比奈は動けなかった。家の主の気質のように手入れの行き届いたそこは立ち入りを拒むように隙がない。季節を考えればそろそろ障子や唐紙を開け放っておくのは辛い。それでも指先を凍てつかせる冷たさは意識の覚醒をつなぎとめるのに必要だった。藤堂が今何をしているかを思えば呑気にぬくぬくとなどしていられない。
「してるっていうより、されてる」
呟いた独り言は冷え始めた空気に霧散した。朝比奈は濡れ縁にさす月明かりのそばへにじり寄って膝を抱えた。藤堂の帰宅に備えての用意も怠りない。藤堂はいつも傷だらけで帰宅する。それでいて藤堂は痛みを訴えることもせずに呑みこんで、待っている朝比奈に微笑する。すまない、と詫びる藤堂の声が朝比奈は嫌いだ。朝比奈の腕がぎゅうと膝を抱き抱えた。藤堂の腕に比べれば朝比奈の腕はまだ細い。武術の試合だって朝比奈が藤堂から勝ちを得たこともない。藤堂が朝比奈に頼る理由はない。
濃灰とぬばたまの闇が口をあける緑陰を朝比奈は睨みつけた。せっかくの広い庭も藤堂の多忙さに負けて手付かずだ。灌木や植木が旺盛に茂り、侵食の強さを示す。藤堂の両親が健在だった頃はそれでも手入れがされていたのだが藤堂が身軽になってからは植物の好き放題だ。それでも藤堂はかかる手間を嫌って植木を取りのけたりはしない。何故なのかと問うた朝比奈に藤堂は微笑して肩をすくめた。思い出したように庭の世話をする藤堂の背は広い。濃紺に白藍が覗く飛白の着姿さえ想い浮かぶ。和服に慣れた藤堂の立ち姿はすんなりとして美しい。帯を締めると案外腰の位置が高い。布に隠れてしまう脚は長くしなやかだ。
朝比奈の目が部屋の中へ移ろう。月光は欄間越しに奇妙に歪み、月の高さによってその影は形を変えた。藤堂がいつも使う部屋へ寝具が用意してある。こうして藤堂が夜半に外出した折、藤堂は何もできないほど憔悴して帰宅する。それを見かねた朝比奈がこうして世話を焼くことを藤堂は受け入れつつある。それでも藤堂は憔悴の理由をけして朝比奈に明かさなかった。朝比奈が藤堂の身に何が起きているかを知ったのは外聞や噂を考えあわせた結果だ。藤堂に確かめるようなことはしていない。内容は相手への負荷なく問うたり返答してもらえたりするものではなかった。ましてその事柄は藤堂以外にも相手がおり、その相手が悪い。その相手にとって藤堂や朝比奈の存在など吹けば飛ぶ。その程度だ。理解している。だからこそ、手が出せない。噛みしめる無力に灼かれながら朝比奈は藤堂の帰宅を待った。
軋むような微音に気付いて朝比奈が顔を上げた。建てつけの古いこの家はあらゆるものが軋んだように音を立てる。それでも藤堂や朝比奈のように頻繁に利用する者は音の出具合を心得ていて手加減もする。明らかな配慮で押さえられている小さな音を朝比奈が聞きつけた。藤堂は長い四肢を繰るのも億劫そうにゆっくり動く。藤堂の性質からみれば珍しいそれに朝比奈は唇を噛んだ。藤堂は言葉少なに戸締りをした。朝比奈も雨戸を閉めたりする。
「藤堂さぁん」
甘ったれたような声を出すのはわざとだ。藤堂は自分より高位のものに弱点を見せたりしない。哀しい自制に朝比奈はいつも泣きたくなる。藤堂が着のみ着のまま、どさりと布団に倒れ込む。その後を追って朝比奈は同じ布団へもぐりこんだ。元より泊まるつもりの朝比奈は心得ていて二人分の寝具を用意している。枕辺で作業が出来るように明かりがある。朝比奈はそっとそのスイッチを入れた。藤堂の顔や首に傷はない。だが襟を開けば惨澹たる有様だ。殴打や打ち据えられた跡は明確に痣として残り、痛みを伴う。藤堂ほどの武人がこんな痛手を負う理由を朝比奈は多分知っている。明確な上下関係の存在する軍属と頂点の男。
藤堂はこうした夜は朝比奈を抱いて眠る。藤堂のされた仕打ちを思えば人肌のぬくもりなど疎ましいだろうと思うのに藤堂はこうした夜こそぬくもりを欲した。こうした夜ほど藤堂は人懐っこくなり朝比奈の頬や額へ唇を寄せる。藤堂のそうした行為は嬉しい。ただその背景を考えあわせると呑気に喜んでもいられない。朝比奈は目を眇めた。眼鏡が邪魔になって外すと枕辺へ置く。藤堂はものを粗末に扱うのを許せない性質だ。乱雑に扱って何度か諫められたことがある。
「藤堂さん」
朝比奈の指先が藤堂の全身を撫でる。胸をたどり下腹部へ至れば身じろぐ。脚の間で絡まる体液がなんであるかを朝比奈はあえて言及しない。
「鏡志朗」
藤堂の緊張が不意に融けた。睡眠や意識の混濁は体を弛緩させる。
「藤堂さん、大丈夫?」
心配した朝比奈が体を起こしかける。一定のリズムで音を立てる寝息に力が抜ける。藤堂の目蓋に唇を寄せる。ぴくぴくと痙攣的に震えるそこは容易に開かない。それだけの消耗を強いる相手に朝比奈は呪詛を吐きかけたかった。藤堂は筋は通すが無理は言わない。非があると判れば素直に折れるし堪える。それらを強引に強いる相手がいることさえも朝比奈は疎ましい。藤堂にはもっと価値がある。そんなところでくすぶっているなど無為だとさえ思う。だが藤堂が堪えるのは己の下へ連なる者たちへの配慮なしには成り立たない。その中にはもちろん朝比奈も含まれるだろうし、それだけの位置は獲得していると自負している。だがこういう日はそのことが逆に重荷だ。
「藤堂さん、なんで?」
朝比奈は返事がないことを前提に問うた。元より藤堂はこうした問答を嫌う。己の信念のためには他者の意見すら厭うきらいがあるのを朝比奈は知っている。藤堂はそういった意味では頑固だ。朝比奈の指先が藤堂の痣を撫でる。力を込めたりはしない。そうすれば突き抜ける痛みが藤堂を襲うことは明白だ。
「なんで我慢するの? オレ達の所為? オレ達の所為かな?」
吐息交じりの独り言に藤堂の返答はない。藤堂に好意を寄せるものとして藤堂の望みをかなえてやりたい想いは朝比奈にもある。だが藤堂の望みは時に負う傷や見返りさえも厭わない。それでいてその目的の位置にいるのは藤堂ではなく朝比奈や四聖剣の面々であったりする。
朝比奈の指先は藤堂の体の薄さを露呈させる。無駄な肉などひと欠片としてない体は引き締まり骨の在りかが想像できる。整った骨格の藤堂の体躯の均衡は絶妙のバランスで成り立っている。だがそれはそれだけに崩壊の危険すら含んだ。完成された美に崩壊の危険は常に付きまとう。完成されているが故の崩壊。藤堂の精神の在りようはどこか破滅的でさえある。
「ごめんなさい」
朝比奈の指先がぶれた。しゃくりあげる喉を押さえ泣き声を堪える。
役に立たなくてごめんなさい
助けられなくてごめんなさい
そんな立場に甘んじているオレを
赦してください
「ごめん、藤堂さん、ごめ…」
震える朝比奈の肩を藤堂が不意に抱いた。確かな熱の在りかを示す胸の鼓動が耳に響く。涙のにじんだ目で見上げれば藤堂が薄く笑んでいた。朝比奈の体が制御を振り切って暴走する。涙腺が見る見るうちに緩んで双眸を潤ませる。震える唇を噛んで声を堪える。そうしないと泣き声が漏れてしまいそうだった。
「すまない。お前に辛い思いを、させて」
朝比奈は力なく頭をふった。朝比奈の感情など藤堂には思い至らないだろう。それほどまでに屈折したそれを、それでも尊んでくれる藤堂に朝比奈は頭を下げたかった。けれど藤堂はけして朝比奈の想いには至らない。その確信が朝比奈を震わせた。藤堂は明敏で、それ故に愚鈍だ。過ぎたるは及ばざるの言葉のごとく藤堂の感覚と朝比奈のそれは連動しない。藤堂のぬくもりはどこまでも孤立する。
「…いいえ、オレは、別に。藤堂さんこそ、大丈夫」
藤堂の腕が力強く朝比奈を抱いた。すがりつくようなそれの震えが常ならぬものであることに気付いたがあえて問わなかった。藤堂はどんな時でも涙を見せない。それは自負のようであり最後の砦でもある。
「すまない。こんな私でも…認めて欲しいと言ったら、お前は怒るか」
朝比奈は目蓋を閉じた。それだけで震えが昇華されるような気がした。藤堂の吐息が首筋に触れる。蠱惑的なそれは目的でさえ見失わせるほどに道を迷わせる。藤堂の体躯は引き締まって美しいがそれ以上に情欲を感じさせずかえって欲を起こさせる。藤堂の体躯が何度も欲にまみれているのを朝比奈は知っている。
「きょう、しろ、う」
朝比奈の声がとぎれとぎれに名を呼んだ。藤堂の息遣いが感じられる。首筋を撫でる吐息の震えが藤堂の心情を示す。
「省悟、すまない」
藤堂の謝罪に朝比奈は言及しなかった。問い詰めたとしても得られるものは傷でしかない。相違をあえて見逃すだけの技量はあると朝比奈は己を評価している。こと、藤堂に関する限り朝比奈は柔軟だ。朝比奈の指先が藤堂の服を掴んだ。握りしめるような強いそれに藤堂は目を眇める。灰蒼が蠱惑的に煌めいた。
「鏡志朗さん、きょうし、ろ、さ…きょうし、ろう」
朝比奈はすがりつくように藤堂と唇を重ねた。噛みつくような激しいそれにさえ藤堂は応えようとする。藤堂の指先が朝比奈の背に爪を立てる。
「ごめんなさい。ごめんなさい藤堂さん。オレはそれでもあなたを。あなたが、欲しい」
朝比奈の指先が藤堂の体を暴く。それまで抱かれていた腕の姿さえ想像させるそれに朝比奈は嫌悪を感じなかった。それが藤堂のものであるのだと言うだけですべてが許せた。藤堂の一部となりえるそれを否定など出来なかった。藤堂の体温と同化したそれは朝比奈に嫉妬心さえ抱かせる。
「藤堂さん、あなたのすべてが知りたい。無理だって判ってる、それでも。それでもオレはあなたが好きだ」
はァッと朝比奈の吐息が白く凍った。藤堂は口元に触れる温いそれに微笑した。
「お前が知りたがるほどの私など、いない」
藤堂は痛みを堪えるように眉を寄せて目を眇めた。少し困ったようなそれは藤堂の仕草の端々からも感じ取れた。朝比奈はわざと明るく笑んで見せた。音が目を失くしてぼやけた視界で藤堂の動向は判らない。それでもそれでいいような気さえした。細部が見えないのは朝比奈にとって渡りに船だった。朝比奈は藤堂の動向を見失って暴走した。藤堂はそれさえ受け入れる。それと知って、朝比奈は暴挙を働く。朝比奈の吐息が揺れた。
「…――ごめん。ごめんなさい。ごめんなさい」
あなたの揺れを知ってる。
だからオレは見ないふりをして。
あなたの望みはあなたを傷つける。
「ごめんなさい。ごめんなさい。オレ、何も、何も…!」
肩を震わせてむせび泣く朝比奈を藤堂は持て余した。その肩や背を撫でさすりながら藤堂は視線を移ろわせた。欄間の形に歪んだ月光の影が奇形に歪んだ。藤堂の視線はそれを無為に追う。慣れた家のものであるはずのそれの見知らぬ顔に藤堂はひるんだ。人も同じものかもしれない。見慣れたそれに惑わされて本質を見失う。けれど相手が朝比奈であるならばそれでいいような気さえした。ただ朝比奈が謝罪する涙声がこだました。
《了》