どんな、カタチでも
たとえそれが憎悪でもいい
「――ダールトン!」
ギルフォードは自身の叫び声で覚醒した。バネ仕掛けのように跳ね起きた上体が揺らめく。布団を握りしめた指は関節が白くなるほどに力が入っていながらギルフォードの意識の表層には上らなかった。破壊された式典と繰り広げられる殺戮行動。目の前で何機もの戦闘機が破壊されていく。仕えていた皇族の皇女ユーフェミアの起こした惨劇の被害は外的な要因のみならず内部にも深い爪痕を残した。ギルフォードの怜悧な容貌が歪んだ。
「…ま、た。また夢、か…!」
ダールトンは年若くして出世を遂げたギルフォードを何くれとなく気にかけてくれた。出世の速さと年若さの所為で敵視されがちなギルフォードには稀有な、心許せる存在だった。親のない子供を養子にして教育をしていた彼は穏やかで優しい人だった。
「――…ゼロ! お前は、お前、は…なんという、事を」
食いしばった歯が軋んだ。白い頬を一筋の雫が滑り落ちた。行き場のない感情の発露はこうして時折ギルフォードを自責の念にかきたてた。ギルフォードの白い握りこぶしがいつしか震えた。
皇帝ルルーシュの式典は盛大なものとなった。ギルフォードは、一時消息を絶った主であるコーネリアとともに身を潜めていた。彼女はルルーシュのことは許せないと言ってその瞳を潤ませ激昂した。ギルフォードは知り得る限りの事実を彼女から聞かされた。自身の犯した過ちとその絶対的な力。たとえ一度であっても主を違える失態にギルフォードは苦悩した。コーネリアは仕方のないことだと言ってギルフォードを責めなかった。その絶対的な力の前に伏したものはギルフォードだけではなかった。ダールトンもまたその力に操られて逝ったのだと、知った。
突然現れたゼロという存在に会場は動揺した。ギルフォード達もまたそれは同様でありそれぞれが驚愕して凍りついた。目の前で展開されていく凄まじいまでの速さをもった出来事に我を取り戻したのはコーネリアだった。彼女の号令にギルフォードの体は従った。長年の生活で染みついた上下関係への従順さは健在であった。ギルフォードは銃を手に地を蹴った。ばらばらと展開していく仲間たちの中でギルフォードは足を止めた。胸を一突きにされたルルーシュが壇上から滑り落ちて最愛の妹のもとへ還った。
「…ルルー、シュ」
泣いて取りすがるナナリーは目が見えているようだ。その幼く可愛らしい顔は悲しみに彩られて哀れを誘う。壁を崩した野次馬の群れから救急隊が飛び出してきてルルーシュを担架へ乗せた。
「ルルーシュ…!」
ギルフォードは意識する前に銃を捨てて地面を蹴っていた。制止するコーネリアにはルルーシュの安否を見届けると叫んで救急車へ飛び乗った。囚われの身であるナナリーやシュナイゼルは元より体の自由がない。救急隊員は皇帝ではなく一人の少年を助けようと奔走した。すぐに病院の受け入れ先が決まりそこへ直行する。握りしめた手はまだほんのりと、温かかった。
「なぜ、刺されたのですか…!」
銃を弾き飛ばされてなお、ルルーシュにはまだ手があったはずだ。何より明晰な頭脳を持ち、ギアスという特殊能力をも備えていたルルーシュらしくなかった。新たなるゼロの出現も彼ならば予見できたのではないかという疑惑すら起こる。すぐに手術室へかつぎ込まれてギルフォードはその場へ立ち尽くした。ルルーシュが一瞬、ギルフォードの姿を認めたかのように微笑した。弱々しいその笑みにギルフォードは声も出なかった。これがかつて自信と策略をもって世界を掌握せんとした彼の姿なのかとギルフォードは戦慄した。固く閉ざされた手術室の扉。いても立ってもいられずにギルフォードはその扉をこじ開けた。
「ギルフォード卿!」
ギルフォードは皇女コーネリアの騎士として顔が売れている。看護師の制止を振り切ってギルフォードはルルーシュの枕もとへすがりついた。かけていたサングラスを外すと白濁した薄氷色の双眸が現れた。ルルーシュはそれを認めて淡く笑った。ギルフォードの手が震えた。その華奢な肩を掴む手がぶるぶると震えていた。
「ルルーシュ様!」
「…な、んだ…ナナリーもお前、も…最期くらい、笑えよ…」
震えるように絞り出された声にギルフォードの双眸から熱い雫が溢れた。
「ルルーシュ様! 何故、何故あなたは逝かれるのですか! 妹君をおいて、何故!」
義憤をぶつけるつもりであった。ルルーシュのなした悪行を列挙してその責めを負わせてやろうと何度思ったかしれない。けれどルルーシュの最期を前にしてギルフォードが口にできたのは他愛もないくだらない問いであった。
「あなたは、なしたいことがあったのではないですか?! なのに何故…ま、さか」
戦慄するギルフォードにルルーシュは聖母のように優しく甘く微笑した。それはもうこの世のものではないような、世俗から別離した笑みだった。
「…お前に、謝ろうと、思って」
「――ならば! ならば生きて謝ってください! こんな、私はこんな、謝罪など」
ヒステリックに叫ぶギルフォードを看護師が抑えた。抑えられる肩が震えた。母親から引き剥がされるのを嫌う嬰児のようにギルフォードは泣いた。
「…ダールトンのことは、悪かったと思って、いる」
びくりとギルフォードの体が凍りついた。ルルーシュは暗くなった目元を瞬かせて言葉を紡いだ。目蓋が何度も重たそうに瞬きする。紫水晶の輝きは今、失われんとしていた。
「――…は、ダールトンが、なぜ今」
「お前たちは、懇意にしていたと」
ルルーシュが息をつくように言葉を切った。ギルフォードの拳が握りしめられてぎちりと生々しい音をさせた。
「…憎かったかもしれない、な。お前の信頼を、得て、いたから――」
ギルフォードは看護師を振り払って枕もとへしがみついて叫んだ。
「ならば、ならば生きてください! 私に恨み事を述べる権利をお与えください!」
「姉君やダールトンは羨ましかった…お前の中に入り、お前の気持ちを」
「ルルーシュ様!」
ルルーシュの手がゆっくりと伸ばされてギルフォードの涙を拭った。幾筋も流れたその流れをせき止めるかのようにルルーシュはギルフォードの目元を拭った。
「ギルフォード卿、俺が憎いか。…憎めよ。俺を憎め」
ギルフォードは黙って唇をかみしめた。紅く熟れた果実のようなその皮膚を犬歯が裂いて鮮血が顎を伝った。その血液を涙と一緒に拭いながらルルーシュが神々しく笑んだ。潤んだようなその紫苑の瞳はこぼれ落ちそうな宝玉のようだった。
「お前が、俺を憎んでいる間は――俺は、お前の中にいられる…」
「そんな! そのような、事…!」
けれどそれもまた真実であるような気がした。ギルフォードがルルーシュを憎悪する限りギルフォードの世界からルルーシュという存在は消えないのだ。
「俺を、憎め――」
ルルーシュの目蓋がふゥッと落ちて単調な電子音が長く長く部屋に響いた。看護師や医師が素早く動き回り、凍りついたギルフォードは部屋の隅へ追いやられた。懸命に蘇生を施すのをギルフォードは茫然と見ているしかなかった。
「ルルーシュ、様…!」
ギルドードはがっくりと膝をついて神に祈るように両手を組んだ。ダールトンやコーネリア、他の者たちへした仕打ち。赦せることではない、けれどギルフォードはどこかで自身がルルーシュの死を望んでいないことに目を背けてきた。
「ルルーシュ様…!」
祈るように両手を組み合わせてギルフォードは跪いた。何人もの血潮に濡れたこの穢れた手でよいならば捧げよう。自身の命と引き換えてもいいとすら想った。ルルーシュはまだ若く少年とすら言える年頃だ。彼のこれからとこれまでを思えばこそ、失わせたくなかった。
「私は、あなたを憎いと思ったことはありません」
ギルフォードは衝撃から身を守ろうとするかのように背を丸めた。ぱたぱたと熱い雫が床へ滴った。
「だから、どうか、生きて――」
祈り捧げるギルフォードの目の前で医師や看護師が立ち尽くした。途切れない単調な電子音は二度とその鼓動を紡ぐことはなかった。息を呑んでふらりと立ち上がるギルフォードを誰も止めはしなかった。
「ルルーシュ、様?」
閉ざされたその目蓋が開くことはもう二度とないのだとその体が言っていた。ギルフォードの指先がルルーシュの体の上を移ろう。固く閉ざされた目蓋やまだ触れたら弾けそうな唇。赤味の残る頬や脈打つことのない首筋。死に至らしめた深い傷跡。
「ルルーシュ、様。ルルーシュ様? ルルーシュ様!」
ギルフォードは慟哭した。枕元に伏せるようにしがみついて泣き叫んだ。
「あ、あぁ、あなた、は――…!」
ルルーシュの顔を見つめる顔が歪んだ。ルルーシュはもう何の反応もしない。生気を失った頬が徐々に白くなっていくのを見つめることしか、ギルフォードに出来ることはなかった。
医師や看護師は手続きのために次々と部屋を退出した。
「私が、あなたを憎むなど。したことはありません…――できません…!」
ダールトンを失いコーネリアを奪われてなおギルフォードのルルーシュへの慕情は消えなかった。それがギルフォードを苛んだ。枕辺でギルフォードは泣いた。
「…一度。一度でよかった…あなたに。あなたに抱かれて、いたなら――」
薄氷色の瞳は潤んで流れを幾筋も伝わせた。ギルフォードは身を乗り出して唇を重ねた。凍てつくような冷たさのそれは確固たるありようでギルフォードを動揺させた。それはもう取り返しのつかない冷たさにギルフォードは喉を震わせた。あふれた熱い涙がルルーシュの頬へ滴る。
すぐに手続きを踏んだ医師達が来てルルーシュの遺体を搬出した。ギルフォードはのろのろとそれについていく。緩慢なそれらは葬列のようだとギルフォードは嘲るように思った。皇帝となった少年の閑散とした最期はふさわしいような哀れなような複雑な思いが去来した。遺体を安置する部屋へ移されて医師や看護師はルルーシュから離れた。ギルフォードはいつまでもルルーシュに寄り添った。体は刻々と冷えていき、血の気も失われていく。白皙の美貌は石膏のような蒼白さを帯びてかたまり、冷水のように冷たくなっていく。
「…ありふれた、別れです。涙さえも」
ギルフォードは黙ってその蒼みを帯びた唇に口付けた。氷や冷水より、絶対的に拒絶する冷たさに背筋を震わせてギルフォードは唇を寄せた。長く口付けるとぬくもりが移って唇を融かした。けれど欠片でしかないそれはすぐに全体の冷たさに呑み込まれてしまう。
「あなたが、私を抱かなかったわけが…判るような、気がします」
抱いたらきっと、戻れなくなってしまうから。ギルフォードの頬を何度目かも判らない涙が伝った。熱い雫の滴る蒼白い頬にギルフォードは手を添えて、ルルーシュに深く口付けた。
《了》