様々なヴァリエーション
無限大の想い
書類を斜め読みしながらサインを入れ判を押す。一連の流れ作業であるそれにいつから慣れを感じたのかもう思い出せない。出自に見合う働きや振る舞いを心掛けながらも、ギルフォードは前線に出れば頭角を現していった。数人とはいえ部下を持つようにもなったし、いわゆる幹部と言われる階級にまで昇進した。そこで待っていたのは作戦の立案や度重なる会議。事務仕事や机越しの交渉が主になり、前線は遠のいた。階級が上がるたびに責任も重みを増していく。失態の引責は周囲に及ぶ範囲にまで広がり、ギルフォードは気付けば慎重になっていた。
大きな窓の外でゴォゴォと質量のある機体が飛び立つ音がしていた。エリア11と呼ばれる占領地内で任に就いてからだいぶ経つ。いまだに日本人を名乗るテロリストとの交渉や戦闘。捕縛したものの処置や処理を事務的にこなす日々が続いていた。抜けるような青い空という言葉を思い出させる空だった。雲の白さが空の青さに映える。窓を開けば機械油の滲んだよどんだ空気が流れ込む。それでもカーテンをはためかせる風が清々しさを思い出させる。占領地と言っても歴史をひも解くと見えてくる悪癖はなく、現地人も移住者も順応しているかに見えた。反対運動はあるが許容範囲内だ。本国でも多少、皇帝の直接政治に異議を唱えるデモがあることも聞いている。人々は日々の不満や不服をそんな風に政治や目に見えない何かに向けて発散する。エリア11でのテロもその範囲内だとギルフォードは認識していた。目に見えた支障は今のところない。
こつこつと扉がノックされてギルフォードが応えた。扉を開いて現れたのは女中ではなく一人の少年だった。少年期と青年期の狭間にあるような体躯と顔立ち。名誉ブリタニア人であり皇帝直属の部隊に配属されたばかりだと聞いている。意外な人物の訪問にギルフォードは言葉をなくした。スザクの方は躊躇しながらも部屋へ入ると扉を後ろ手に閉めた。開かれた窓と扉の風圧で書類が数枚宙を舞った。スザクは黙ってそれらを拾うとギルフォードの方へ差し出した。
「迷惑、ですか?」
人を食ったようなそれにギルフォードは堰を切ったように笑いだした。
「迷惑というより、意外だな」
差し出された書類を受け取り、ペーパーウエイトを置いてひとまず横へ避けておく。
設えられた応接セットを勧めるとスザクは素直に頷いてソファへ腰をおろした。その向かいの一人掛けのソファへギルフォードも腰を落ち着ける。
「珈琲でも飲むかい? 珍しい豆が手に入ったものでね」
「いえ、遠慮しときます。珈琲、苦くってあまり好きじゃないんです」
クックッとギルフォードが笑うとスザクが一瞬、むぅっと膨れた。そういう仕草を見る限りではスザクは年相応の少年だ。スザクが異例の出世を遂げたのは幾度にもわたり煮え湯を飲まされてきた黒の騎士団のリーダー格であるぜロを捕らえたからだと聞いている。ゼロの正体は極秘扱いでギルフォードの地位程度では知ることも許されない。
「何か用事でも? それとも捕らえた獲物の釣果でも聞かせてもらえるのかな」
「ギルフォードさんって呼んでもいいですか?」
スザクはギルフォードの切っ先をするりとかわした。年少故に許される傲慢さを最大限生かしたそれにギルフォードは嘆息した。
「私のことならなんと呼んでもらってもかまわないよ…むしろ私は敬語を使うべきなのだろうな」
ギルフォードは一軍人でしかないが、スザクは政治の頂点に君臨する皇帝の直属の部隊に所属しているのだ。並ぶどころか比べるまでもない地位の差がそこにはある。
「敬語は使わないでください…俺は素のあなたが見たい…」
一枚板の上等なテーブルを乗り越えてスザクの体が迫った。気づく前に唇が重なる。逃げを打つ背中をゆったりとしたクッションが阻む。スザクの手袋をはめた指先はさらさらと絹の滑らかさで滑る。
「く、るるぎ、卿…」
「スザクです。スザクって呼んでください」
ぬめる舌先が耳朶を穿つ。耳の穴を丹念に舐り、尖らせた舌先を入れてくる。くすぐったいような背筋を走るぞわぞわした感触にギルフォードが身震いした。
「ス、ザク、くん」
刹那、スザクが泣き出す直前のように微笑した。眇められた目は涙で潤みつり上がった口の端が痙攣する。寄せられた眉は彼の意志の強さを表しているのに今はひどく情けない。
「あなたも俺をそう呼ぶんですか」
「…ほかに、どう呼べばいいというんだ」
ラウンズ入りしたスザクをいくら許しがあると言っても呼び捨てることなど、幼い頃から上下関係をしつけられてきたギルフォードにはできない。
「同じでしょう? 俺も、あなたも、皇女の騎士でしょう? 同じじゃないですか」
「軍における位置が違いすぎるよ、これでもかなり無礼を働いた気になっているんだよ」
羽根のようにスザクの蒼いマントが翻った。身軽くテーブルを飛び越えたスザクの勢いに押されてギルフォードはソファの上で仰け反った。そこへ嵩にかかるようにスザクが圧し掛かってくる。テーブルを蹴り飛ばず行儀の悪さの裏で感じる気高さは日本人特有のものなのかスザク特有のものなのかギルフォードは無為に思いをはせた。間に挟んだテーブルは何の守護壁にもならなかった。スザクは易々とそれを飛び越し、あまつさえ蹴り飛ばして自由なスペースを確保した。立てる物音にも誰の反応もない。身分違いの面会におけるこの緩さはギルフォードにとって仇となった。性別の偏りが激しい軍内において同性同士の抱擁や口付けなど日常茶飯事でしかない。日常会話や挨拶にも上らないほどの些事だ。それどころか、どこに属する誰がいいだのと下世話な流言すら当然のものとして成り立った。スザクはギルフォードの反応を見てくすりと微笑んだ。
耳まで真っ赤になっているだろうことはその発熱具合からギルフォードにも知れた。ただしこれは意識的にそうしているわけではけしてない。体の交渉を即座に連想させるキスという行為をギルフォードだって何度か経験している。その相手は異性にとどまらず同性からされたことだって何度もある。それでも何の気負いもなく唇を乗せてきたスザクを想うだけで体は発熱したようにカロリーを惜しげもなく熱として消費し、皮膚を赤らめた。背中にじっとりと汗をかいている。すぐにでも拭い去りたい類のそれは、それであるが故に後から後から湧いて出る。スザクはそんなギルフォードの反応に寛容であろうとするかのように微笑していた。
「キスくらいで動揺しないでほしいな。先に進めないじゃないですか」
ずるりとギルフォードの鋭角的なフレームを持つ眼鏡がずれた。そんな仕草は日常のギルフォードとの差異を明確にして、愛らしさを誘った。
「あなたを」
スザクは謳うように呟いた。それがギルフォードの耳朶を打つ。
「あなたを愛せたらどんなにか良いだろうに――」
「き、君はこういった行為に情を持たないのか?」
「持ちます、持つよ、俺だって人だよ…でも」
スザクがギルフォードにすがりつく。軍服の上から立てられた爪先が皮膚を圧迫する。鬱血するだろうそれだけが妙に気になってギルフォードはスザクから目線をそらした。スザクの指先がかすかに震えていた。
「あんな、あんな風に俺を呼ぶ人を、俺は知ってるから――」
ギルフォードの胸にスザクは顔を伏せた。震える肩はまだ大人になり切れていない過渡期を表している。爆発的な成長期を経て大人の男へと変わる、そのベクトルがまだ不完全だった。それでいて彼に女性的な部分などなく完全な男性だ。ただ、いまだに残る精神の未熟さや幼さがその顔立ちに現れていた。日本人は童顔だという統計をギルフォードはぼんやりと思いだしていた。スザクが誰かをギルフォードに重ねて見ているのは確かだが、それが誰かを知る必要性も義務も感じなかった。そこはギルフォードが踏み込むべき領域ではなかった。
「俺だって、がんばってるのにみんな、邪魔ばっかり…俺にどうしろって、どうしろって言うんだよぉ…」
むせび泣くスザクを抱擁するしかギルフォードにすべはなかった。スザクが誰のことを言っているかは問題ではない。成長期特有の無力感とやるせなさのほかに彼を苛む何かがあることだけは判ったがそれはギルフォードが解決できる問題ではなかった。また、解決してやるべきでもない。自身の力で乗り越えるしかないのだ。
「スザクくん」
「あ、あぁ…ッ俺は、俺、は――!」
ギルフォードは泣き顔のスザクの顔を向けさせると無理やりにキスをした。唇を乗せるだけのそれにスザクは平静を取り戻す。ギルフォードから仕掛けたそれはいつしかスザクが主導権を握った。唇を乗せ、舌を絡めあう。吸いつくようなそれの心地よさに二人は酔った。
ギルフォードの体は泥に沈んだかのようにソファの上から動かない。それをスザクは無理矢理に引き剥がすように床の上へ押し倒した。ギルフォードもされるがままになっている。
「あなたなら、あなたならきっと俺のことを想ってくれるでしょう? 俺のことだけを、想って――」
返事のように伸ばし捧げられた手首をつかんでスザクはそこへ唇を乗せた。すがるように許しを請うように伸ばされた両腕をスザクは捕らえて口付けた。
「君は違うのか。君は、ユーフェミア様のことを想わないとでも?」
「いまさら知らぬふりはないでしょう。体の交わりの相性が、一番大事でしょう? 想うだけじゃ、だめなんだ。体の相性ってものがあるでしょう」
スザクの指先がギルフォードの襟を緩めていく。ギルフォードは黙ってそれを享受した。現れる喉仏に執拗に舌を這わせる。女性にもあると言われる喉仏だが男性ほど顕著ではない。尖ったそれをスザクは器官を愛撫するかのように丹念に舐った。
ギルフォードの脳裏にコーネリアが浮かんで消えた。コーネリアの騎士を務めながらその兄君であるシュナイゼルや戦闘で駆使するナイトメアフレームをつかさどるロイドに抱かれている。裏切りに身を灼かれながらギルフォードは生きている。葛藤や裏切りに身悶えながら、ギルフォードは生きている。スザクもきっと同様なのだ。自身の裏切りという手ひどい傷に叫び声をあげながら必死に生きているだけなのだ。
「俺は――俺はきっと、誰かに叱ってほしいんだ。なんでこんなことをするんだって、誰かに叱って、止めて、欲しいんだ…」
取り巻く世界は時に残酷だ。切望する何かをとらえながらそれを与えない。
「君を叱ることなど、誰にもできはしないさ。誰かを責める権利など滅多に与えられるものじゃない」
ギルフォードの言葉にスザクの肩がびくびくと痙攣した。しゃくりあげるようなそれを包み込むようにギルフォードは抱擁する。
「世界の誰もが、責める権利と責めを負う義務を獲得している…無条件で誰かを責めるなど、誰にもできはしない」
「あなたも――あなたも同じことを言うんですね」
涙に濡れた碧色の瞳は美しく微笑しながら言った。その誰かが判ったような気がしてギルフォードは黙った。
「人を好きになるのは存外簡単なんだ。嫌いになる方が面倒だし難しい」
ギルフォードが四肢から力を抜きながら言い聞かせるように呟いた。スザクはその四肢に指先を這わせながら服の留め具を解いていく。
「俺はあなたが好きです」
「気の迷いか錯覚だよ。世の中のほとんどはそれらで成り立ってる」
隠居のような物言いにスザクは朗らかに笑った。現れた皮膚に唇を這わせながらスザクはこらえきれないと言ったように笑った。
「俺、やっぱりあなたが好きです。錯覚でも気の迷いでも何でもいい。好きだっていうこの、感覚は確かにあるんだ」
「好きと愛しているというのは別物だろう?」
スザクは一瞬キョトンとしたがすぐにはじかれたように笑った。
「違いない! そうですね、あなたのことは好きだけど、愛しているのはきっと――」
その先を塞ぐためにギルフォードは体を起こしてスザクとキスをした。
「ここで言うなよ。私の体裁も気遣ってくれ」
スザクの指先がギルフォードの髪の結い紐を解いた。はらりと広がる黒褐色の髪を梳くように撫でる。幾人の男がそうした仕草をしてきただろうとギルフォードは不意に思った。
情の交錯と体の交渉は時に矛盾を引き起こす。性的な交渉ができるからと言ってそこに感情が付随するとは限らない。感情を抜いてもシステムさえ働けば交渉は可能だ。ギルフォードは軍に入ってからそれを実感した。けれどギルフォード自身は体の交渉があるなら情の交錯もあると信じるクチだ。何より情の交錯がなければ行為など虚しいだけにすぎない。そういう意識を持っているだけにスザクとのそれは抵抗を感じた。彼を好意的にとらえはしているものの、そういう対象として見てはいない。
「スザクくん、私は」
「情と行為は別物ですよ、ギルフォードさん。俺は最近それを感じたんだ」
視野狭窄の激しい時期に特有の論理だった。それでもギルフォードは黙ってスザクの行為を受けた。それは何よりスザクが軍内においてギルフォードより上位にいるからに他ならない。上位者の命に従うのが軍に属する者の定めだ。スザクが何を感じたのかは判らないがギルフォードと信条を違えているのは現状としてそこにある。
「私は、感情の交錯を求めない交渉には応じられない」
「うそつきですね。情と行為は別物だ。単純に刺激すれば反応するでしょう、ほら」
スザクの指先はいとも簡単にギルフォードの体温を上昇させた。
「君は、それでいいのか」
「俺はもう、何も求めないことにしたんです。行為があればそれでいいじゃないですか、そこに想いだとかそんなものが絡むから面倒なことになる。行為と反応があればそれでいいじゃないですか」
スザクが苦悩の果てにそこへ到達したのが目に見えるようだ。ギルフォードは黙ってスザクの行為を受けた。
《了》