見逃してよ?
嫌だよ
油断大敵!
射しこむ日差しに白い目蓋がぴくぴくと震えた。睡眠と覚醒の狭間であるまどろみは心地よく、ギルフォードはそこから目覚めたくなかった。ふかふかの枕に頭を沈め、布団を引っ張り上げて日差しを遮断した。糊のきいたリネンは水面のように畝を作る。サラサラの肌触りは心地いい。素肌に触れるちょうどいい冷たさにギルフォードは眠気を誘われた。肩までかぶる布団も具合がいい。
「起きてくださいよぉ、つまんないじゃないですかぁ〜」
響いた声にギルフォードの意識は徐々に覚醒していく。
見上げた天井は眼鏡がない所為でぼやけてこそいるが見慣れたそれではない。心地よい寝床もそうだ。高価であることに変わりはないが普段使いとの微妙な具合の違いが、覚醒するに従ってあらわになってくる。半覚醒状態で起き上がったギルフォードの目の前で、男は大爆笑した。座っていた椅子から転げ落ちてまで笑い転げている。いささかムッとしながらギルフォードは男を睨んだ。癇に障る笑い声を遠慮も配慮もなく響かせ、腹がよじれると言わんばかりの大爆笑だ。
「はー…あ、ははッ…」
人の良さそうな穏やかな雰囲気のフレームをした眼鏡を指先で押し上げて整える。椅子から転げ落ちて床に行儀悪く座っている。全体としてひょろりとした印象を与える痩身の男だ。薄く紫に色付いた髪は緩く巻いた癖っ毛で、眠たそうな瞳は天藍。眼鏡の奥でその天藍が意味ありげに煌めいた。
「…ロイド、伯爵!」
中華服に似た白衣姿しか目にしていなかった所為かそうと気づくのに遅れた。ロイドはまだヒィヒィと笑っている。その白く透きとおりそうな指先がギルフォードを指している。
笑いすぎでロイドの喉がヒューヒューと音を立てているのに気づく。その目には笑い涙がうっすらと溜まり、常態以上につりあがった口の端がおかしくてたまらないと言っている。ギルフォードはごしごしと目をこすると眼鏡を探した。幸い、眼鏡はすぐに探り当てられて掛ける。そこで異常に気付いた。眼鏡のおさまりが悪いうえに普段聞こえないだろう些細な音まで聞こえてくるのだ。布団をはねのけると寝室を飛び出し、備え付けの洗面台へ走る。
「なッ――!」
ギルフォードは血の気が音を立てて引いていくのを感じた。後ろでロイドがおかしそうに体を折っているのが鏡越しに見えた。
ぴんと張り詰めたように立つ猫耳は黒絹の艶でギルフォードの頭に鎮座している。ロイドの笑い声を敏感に聞きつけてそちらの方へぴくぴく振り向く。そうくれば後は尻尾だ。ギルフォードは腰のあたりにわだかまっている塊が尻尾であることを確信してやまなかった。まさかロイドの前でズボンを下ろすわけにもいかず、しぶしぶ手を突っ込んで引っ張りだせば、見事な毛並みの黒い尻尾が現れた。しかもギルフォードの苛立ちを反映してしきりにパタパタと揺れる。ギルフォードは呆然と鏡の中で猫耳を生やしている自分を見ながら昨夜のことを思い出していた。
夕食を共にどうだと誘われて、それを受けた。食事に特に異変は感じられなかったし、ロイドも同じ献立を食していた。もっともロイドの城なのだからどちらか片方にのみ一服盛ることなど造作ないに違いない。食事のあとに二人で杯を交わしながら世間話をしていたところまでは覚えている。酒が強かったのかギルフォードが帰宅を申し出ようとする頃には意識は半分飛んでいた。ロイドに言われるままに客室に案内されて――記憶がない。
「…一服盛りましたね…!」
怒りのあまり半眼になってロイドを睨むギルフォードにロイドは笑いながら頷いた。睥睨する様子も猫耳と尻尾の所為で威力が半減している。
「うん。君だったらさぁ、犬になるかと思ったんだよぉ、ほら君は忠犬って感じだからさぁ。でも猫だったねぇ――あっはっはっは! いいじゃなぁい、かわいいよぅ?」
「冗談じゃないです! これじゃあ、軍務はおろか外に出ることすらままならないじゃないですか!」
半狂乱のギルフォードをよそにロイドは飄然と言い切った。
「別にいいじゃない。どうせ軍人なんて勤務時間、あってないようなもんでしょ」
「部下に示しがつきませんよ!」
あっさりさぼれと言い切るロイドにギルフォードは噛みついた。元来、ギルフォードは生真面目な性質で定刻には所属部へ顔を出していた。部下もそれを承知していて顔を出せばそれなりに友好的に応じてくれる。
「うぅん、もぅ…いいじゃない、別にぃ。それよりさぁ」
ロイドが不意に近づいてギルフォードの手を取った。騎士が姫君にするように唇を落とす。ギルフォードの黒い尻尾がぱたりと落ちた。
「戦闘と同じくらい興奮することしようよ」
薄い色素の皮膚の中で唇だけが紅く色づいている。ふわんと触れてくるそれに気づいてギルフォードはロイドを腕力にものを言わせて突き飛ばすと扉へ一目散に駆けた。取っ手を回すが途中で止まる。扉はもちろん、開かない。
「なんで…ッ?!」
「予想通りの反応だねぇ〜、考え読まれやすいよって、言われない?」
ロイドは平然と洗面所から出てきた。伯爵の爵位をもつ者の客室だ。豪華で造りも凝っているし十分な広さがある。じりじりと詰め寄るロイドにギルフォードは戦慄した。
その刹那、こんこんと扉がノックされる。ロイドの気が一瞬それた隙をついてギルフォードは部屋の反対側へ逃げた。猫化して身体能力でも上がっているのかギルフォードの動きは素早く、ロイドはあきらめて扉を開けた。逃げ込んだ位置関係から見て、来訪者にギルフォードの姿は見えない位置だ。困り顔の女中の後ろからよく見知った男が顔を出した。
「申し訳ありません、どうしてもとおっしゃるものですから」
「君には悪いことをしたね、戻ってくれて構わないよ…いいネコを仕入れたと聞いたものだからね。いてもたってもいられず、というわけだ」
ロイドは仕草だけで女中を下げさせるとシュナイゼルを部屋に招き入れた。嘆息しながらロイドは意味ありげに笑んだ。常態が微笑を浮かべたような表情のロイドの稀有なそれにシュナイゼルは極上の微笑で返事をした。
「殿下のご登場ですよぉ。隠れてたら失礼じゃないですかァ…ホントに、もう」
最後のつぶやきは残念そうに響いたがシュナイゼルはきっぱりそれを無視した。二人の目の前ではギルフォードが頭から布団をかぶってどうしたものかと思案している。
「君になにかあったと聞いたから飛んできたよ。場合によっては勤務に便宜を図ってもいい」
シュナイゼルは穏やかな物腰で優しげに語りかける。ギルフォードは何やらうぅ、とか、あぁとか呻いていたが、覚悟を決めたのか布団を脱いだ。ぴんと立った黒い耳はシュナイゼルの方を警戒するかのようにぴくぴく向く。呆然と立ち尽くす腰の辺りでは長い黒毛の尻尾が不安げにパタパタ揺れている。
シュナイゼルは一瞬、あっけにとられた顔をしたがすぐに満足げに微笑んだ。
「本当に可愛らしい猫だ…! いくら積んでも構わない」
「いくら殿下でもあげませんよぅ、僕のですから」
二人の言いざまにギルフォードは意識が遠のきかけたが必死に意識を保つ。この状態は何としても解決しなければならない。
「ロイド伯爵、一服盛ったなら解毒剤をください…! このままでは、私は」
「不都合でもあるのかい」
平然としたシュナイゼルの言葉にロイドが頷いている。ギルフォードも世間知らずと言われる出自だが二人はそれを上回っているようだ。猫耳つけた軍人がどこの世界にいるのだ。しかも少数とはいえ部下を抱えた、だ。
「不都合どころか不具合ですよ、これでは! こんな、私はもう…!」
ギルフォードの薄氷色の瞳がみるみる潤んだ。泣くことなど久しくなかったが、この状況を打破する難解さと情けなさに涙があふれそうだった。
「あぁほら、猫が泣いてしまうよ」
「それも見たいからいいンじゃないですかぁ」
二人の言いようにギルフォードの双眸から涙があふれた。ぼろぼろ零れるそれはギルフォードの白い頬を滑り落ちて絨毯に染みを作る。同時に横隔膜が痙攣してしゃくりあげる羽目になる。こうなるともう自制するのはかなり困難だ。何とも情けない状態であることがさらに涙をあおった。
「あぁ、泣かないでおくれ、胸が痛むね。けれど実に可愛らしいよ」
「慰めてるんですかぁ、それぇ? 僕は素直にカワイイと思いますけどねぇ、そのままウチに居つく気、ありません?」
ギルフォードは耐えかねて膝を抱えてしゃがみこんでしまった。泣き顔を見られたくないのと情けないのとで顔がくしゃくしゃと歪んだ。あふれる涙が腕やひじを伝って落ちる。黒絹の艶を持つ耳は怯えたように伏せられ、尻尾は力なく垂れている。
流れる黒髪をそっと指先が梳く。耳がぴくりと反応した。眼鏡が落ちてカシャンと音を立てた。ぼやける視界が涙で滲んだ。ひくひくとしゃくりあげるギルフォードの頤を捕らえ、その頬をゆっくりと優しくシュナイゼルが撫でた。
「慰めているよ、大丈夫、心配することはないよ…報告は受けているからね」
「ほう、こく…」
ロイドは大仰に肩をすくめて見せるとテーブルに備え付けの水差しからコップへ水を注いだ。
「人体のある一部のみ動物化可能。機能も同様に上下し、持続性は短い。副産物ですけどねぇ…報告してもなんのリアクションもなかったからいいと思ったんですけどぉ」
薄氷色の瞳が驚きに見開かれていく。涙に濡れたその潤みにシュナイゼルは唇を寄せた。
「殿下ぁ、ちょっと」
言われてシュナイゼルが体を起こす。呆然としているギルフォードの顔面を冷水が直撃した。水を浴びて反射的にプルプルと頭を振って水を散らす。黒い毛並みの耳がパタパタ揺れた。
「あっはぁ、やっぱりぃ。水かぶった時の仕草が猫ですねぇ?」
雫を滴らせるコップを手にロイドが性質の悪い笑みを浮かべた。ロイドが先ほどコップに注いだ水をギルフォードの顔面に浴びせたのだ。
「ロイド伯爵!」
怒りに燃えた薄氷色の瞳がロイドを映す。耳がぴんと張り詰め、尻尾もまっすぐ天を向いて伸びている。その毛並みが怒りに逆立っている。
「あはぁ、猫にまで怒られましたよぅ」
ロイドは楽しげに邪気のない笑みをギルフォードに向けた。シュナイゼルは予想していたのか、仕方ないと言わんばかりに微苦笑を浮かべている。ギルフォードはぎりぎりと歯噛みしながら怒りの矛先を収めた。まさかシュナイゼルに八つ当たるわけにもいかないうえに、ロイドに至っては罪悪感など微塵も感じていないのだから怒るだけ無駄だ。
けれど浴びせられた冷水は昂ぶっていたギルフォードの思考を冷やした。持続性は短いと言っていたのだから、この分ならある程度の時間をやり過ごせば解毒剤は必要ないということになる。そうなればロイドに用はない。
「失礼します」
ギルフォードは寝台からシーツを剥ぎ取るとそれを頭からかぶった。耳はすっぽり隠れ、尻尾もなんとかその先端がちろちろ覗くだけだ。二人は意味深に視線を交わすと道をあけた。ギルフォードは立ち去りたい一心でそこを駆け抜けようとする。ロイドのひょろ長い脚がその足元をひょいと引っかけた。
「う、わッ!」
バランスを崩した隙をついてシュナイゼルの手が伸び、ギルフォードの首根っこを捕らえる。子猫よろしく吊るしあげられたギルフォードは寝台の上へ放り投げられた。スプリングが軋んだ音をさせてギルフォードの体躯を支える。
「何をッ?!」
「猫を捕まえるのはコツがいるからね? あいにく猫を逃したことはないんだよ」
圧し掛かってくるシュナイゼルの指先は手慣れた風にギルフォードのズボンを脱がせた。下着まで一緒くたに持っていかれてギルフォードはシャツの裾で必死に隠した。長く黒い尻尾が恥じらうように巻いた。急所を隠すような仕草のそれにロイドまで身を乗り出してくる。
「殿下、僕のですからね? 先にいただかないでくださいよぅ」
「皇族より優先権を主張するとは、君もなかなかだ。どっちがいい?」
最後の一言はギルフォードに向けられたものなのだろうが、どっちに転んでも結果は似たようなものだ。ギルフォードは拒絶の意を示そうと必死に頭を振った。ふむ、と唸りながらシュナイゼルはギルフォードの尻尾を撫でた。指先に絡めるように撫でてくるそれは心地よい。時折、尻尾の付け根にまで伸びてくる指先の感覚がギルフォードを焦らせた。優しく撫でるそこに他意などないと言われているようでいて、明らかな目的をもった撫で方にギルフォードは戸惑った。いつの間にか寝台に上がっていたロイドがはくんとギルフォードの耳に噛みついた。耳は皮膚が薄く感覚も敏感だ。ぴくぴくと震えてしまうそれを楽しそうに眺めている。
「実に愛らしい猫だね…一匹、欲しいものだ」
「一匹、いますよ、あげる気はないですけどねぇ」
ぬめる舌先が耳の中へ入り込もうとするのを必死に耳を伏せて防ぐ。
「あっはァ、かわいいですねぇ」
ロイドの楽しげな声が恨めしい。同時に昨夜の自身の失態を呪った。
「かわいく、ないです…ッ!」
「自重しているのかい、そんなことは必要ない。十分に可愛らしいよ」
「そうそう。ちゃあんと、可愛がってあげますから心配なんか要りませんよぅ」
思いきりそれらを否定したかったがするだけ無駄な気がしてギルフォードはうなった。その様が、まるで猫が喉を鳴らす音に似ていたものだから拍車がかかる。二人は楽しげでかつ、満足げにギルフォードを愛でた。
「チャンスを逃していては、話にならない。この次などないものとして考えるのが無難というものだよ」
尻尾は優雅にシュナイゼルの指先にからめとられる。
「猫を飼ってみるのもいいかもしれませんねぇ」
ロイドの吐息が耳にかかる。紅い唇が黒い毛並みの耳を挟んだ。ギルフォードはなすすべなく体を震わせるのが精一杯だった。
《了》